アガルワル:自由なインドのためのガンディー主義憲法:扉〜序文

(扉)

自由なインドのためのガンディー主義憲法

ワルダ市・セクサリア商科大学学長
シュリマン・ナラヤン・アガルワル著

序文
マハトマ・ガンディー

(序文)
セヴァグラム
ワルダ経由(C.P.)

序文

   おそらく「ガンディー主義憲法」なる表現は、アガルワル学長の著書の題名にふさわしくはなかろう。たんに便利で簡潔な題名としてなら受け入れてもよいが。
 本書の枠組みはまぎれもなくアガルワル学長のもので、私の書いた物に対する考究にもとづいている。かれは長年にわたり、それらの解釈をこころみてきた。しかも、かれは解釈の間違いを恐れるあまり、わたしが目を通してからでなければ、なにひとつ出版しようとしなかった。
 このことは、長所でもあれば短所でもある。長所の方は明らかだろう。短所は読者が、ひとつひとつの文章の隅々にいたるまで、すべてわたしじしんの考えだと誤って思いかねないことだ。かれらにその間違いをおかさないよう、ここで警告させていただこう。
 本文のページにあらわれるすべての言葉にかかずらうくらいなら、はじめから自分で書いてしまった方がましだろう。私はこの憲法を2回、ほかの任務に向かうときに劣らず注意深く、一生懸命読んだけれども、すべての考察、すべてのことばに至る精査はとてもできなかった。また私じしんの節操や個人的自由に対する感覚が、そうした暴虐に走ることをゆるさなかった。
 そういうわけでわたしに言いうるのは、この冊子は豊富な証言からなっており、著者はその正確さにできるかぎりの注意を傾けている、ということだ。わたしの立場と相いれないゆえに摩擦を惹き起こすような内容は、ここにはない。

  著者は、わたしでも必要と感じるような言い換えを、じつにうまくやり遂げている。

  「憲法」ということばに読者は、著者が完全なかたちの憲法を作り上げ提示しているのだ、と思い込んではならない。最初の数ページではっきり述べられているが、著者は、わたしの構想する憲法がどんなものであるのかを示す、大まかな流れを述べているにすぎない。
 アガルワル学長のこの著作は、インドに憲法を贈ろうとしてきた数々の試みに対する、深い思索に満ちた貢献である。かれの試みの価値は、時間が足りないゆえにわたしがやり損ねてきた、まさにそのことをやりとげてくれた、という事実にある。

カルカッタ行きの車中で、
1945年11月30日
M.K.ガンディー