アガルワル:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第1章

(p.9)
I
はじめに

 連合国(United Nations)が「総力戦(total war)」に勝利したことは、もはや疑いようがない。彼らはドイツと日本を「無条件降伏」によって屈従させた。しかし、その同盟が果たして「完全な平和(total peace)」を達成したのかどうかは、いぜん証明と実行にまたざるをえない。恥知らずにも大西洋憲章を、しかも戦争の間に葬り去り、ちがう看板の下に新しい国際連盟を立ち上げ、ヴェルサイユ条約の影が薄くなる前にポツダム宣言を発表したこと、これらを希望への兆しとは呼べまい。ウェンデル・ウィルキー 1)が述べたように、「戦時ですら成しとげられなかった重要事を、平時にできるわけがない」1 のだ。国際連合(United Nations)の誠実さを決定的に試すのは、インドだ。「イギリスとは」、パール・バック2) のみるところでは、「その帝国のために戦う民主主義だ」という。2 この現象以上にややこしいことは、人類の歴史上存在しないだろう。民主主義と帝国主義は、根本的に相いれないからだ。しかしイギリスは、そうした二心ある道徳をつねに実践してきたのであり、かれらがインドから潔く去って行くだろう、などというのは怠惰な期待にすぎない。いずれにせよ疑いを容れないのは、インドは遠からずその政治的自由をかちとる、イギリスがどんなに手の中に入れておきたくても、ということだ。H.G.ウェルズ 3) は『地球国家2106年』のなかで、

1 ‘One World,’ p.118.
2 ‘Asia and Democracy,’ p.16.
ウェンデル・L・ウィルキーW e n d e l l L e w i s W i l l k i e ( F e b r u a r y 1 8 , 1 8 9 2 - O c t o b e r 8 , 1 9 4 4 ) w a s a c o r p o r a t e l a w y e r i n t h e U n i t e d S t a t e s a n d w a s t h e d a r k h o r s e R e p u b l i c a n P a r t y n o m i n e e f o r t h e 1 9 4 0 p r e s i d e n t i a l e l e c t i o n .
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イギリスのインドへの掌握がゆるみ、「短い発作的な硬直」の後に消滅するさまを視覚化している。わたしは心から信じているのだが、この発作的段階は過去3年間のあいだきわめて目覚ましく、いまや苦難の終わり、いままでの憂鬱と暗黒から栄光の夜明けと独立とが生まれようとしている。インドのような、巨きく古いアジアの国が自由になくして、世界平和などまったくの不可能ごとだ。奴隷のインドは、将来の国際的な協調と親善にとっては肥大する脅威であり続けるだろう。だから世界に、その「自由たらんとする自由」を拒んでいる余裕などないのだ。1

 そこには、「自由なインドはどんな憲法がふさわしいのか?」という疑問が自ずと湧き上がるであろう。われわれは西洋世界の憲法、スイス、合州国あるいはロシアのようなのをまねるのが良いだろうか?あるいはわれわれ自身の国産(スワデシ)憲法を民族的な天性、文化、伝統に基づいて発展させるべきだろうか?わたしの精神にとって、この問いは至高の重要さをもつ。政治権力をわれわれがじっさいに取り戻すまで引き延ばす代わりに、いま、ここで答えるべき問いなのである。
 インドは悠久の歴史をもつ土地だ。それがかつて発展させていた憲法を研究すれば、紀元前のずっと昔において、インドにはあらゆる可能な種類の政治組織が機能していたことが分かるだろう。ヨーロッパや新大陸に文明の兆しさえなかったころ、インドではすでに、君主制独裁制、民主制、共和制、そして無政府主義すらが試みられていた。


1 ‘A Week with Gandhi’ by Louis Fisher, p.59.
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K.P.ジャヤスワル 1) は「インドの政治組織」において、古代インドのバウジャ・スヴァラジャ、ヴァイラジャ・ラシュトリカ、ドヴァイラジャ、アラジャカの憲法について語っている。これらのうちには、おそらく、他の国々では試されたことがないものすらある。そういう意味でインドは、憲法体制発展の研究所といってよいかもしれない。溶鉱炉に放り込まれたことすらない西洋憲法からの寄せ集めをでっち上げるのは、インドへのひどい侮辱であるばかりでなく、社会学的科学への壮大な無知をうっかり晒すことでもあろう。憲法にはつねに有機的発展をとげる性質があり、それゆえもっとも非科学的なのは、ある国にその天性とは異質な統治のしくみを押しつけることなのだ。統治システムの移植は、できないしやってはならない。サー=ジョン・マリオットいわく、「憲法は輸出可能な商品ではない。」1 おのおのの民族はそれぞれ独特の文化と文明をもち、それは「魂」と呼ばれる。この独自性は、民族のあらゆる生活局面において、展開し保存されるべきものだ。雄々しさと自然の多様さこそが生であり、鈍重さと物まねの画一さは死にほかならない。
 どうか誤解のないように。わたしが言いたいのは、ほかの諸民族の経験に目を閉ざし、偏狭なナショナリズムをふくらますべき、といったことではない。まるで反対だ。しかし、いまやわれわれが実現すべきは、己の「劣等意識」の感覚を消し去り、いつも西洋ばかり見るかわりに内面を見つめる習慣を培うことである。長らくわれわれは、西洋のサル真似であった。しかしいまこそ、われわれのインドの文化と制度を、まっとうな精神のもとで誇ろうではないか。
 さらに一歩進もう。地域分散型の民主主義のかたち、それはインドにおいて何世紀にもわたって慎重に発展し、維持されながら村の共和制を形づくってきたものだが、それは過去の遺物でも部族共産制のなごりでもない。円熟した思想と真剣な実験の産物なのである。

1 ‘Dictatorship and Democracy’, p.9.
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地方自治体は、わが国の数えきれないほど多くのむら共同体で発展せられ、数世紀もの政治的動乱という試練を耐えてきたが、それはいまだに民主的統治の理想的なかたちを組織することができる。わたしが言いたいのは、古い地方統治のしくみを古代そのままの姿で再現せよ、ということではない。いくつかの修正を組み込んで、現代の市民生活にあったものにすることは必要である。
 ここで、20世紀のインドにおける憲法制定史を一瞥しておこう。いうまでもなく、憲法改革をイギリス政府がもたらしたのは1909、1919、1935年のことだ。イギリスの立憲主義者が憲法は輸入されるべきではない、というはっきりした意見を示したにもかかわらず、この改革はなんのためらいもなく、イギリスからインドへと輸出された。それらは、この国の文芸復興の精神とはなんの関わりもなかった。マハトマ・ガンディーは土着の文化と文明を発展させる方向へ関心を向けた最初の指導者である。かれの「ヒンド・スワラージ」は1908年に書かれ、未来のインドにおける憲法がその礎をおくべき、基本的な理想がそこには含まれている。さて、ここでわれわれは1916年の国民会議ムスリム連盟案にたどり着く。これはイギリスの議会制度に沿い、なんら新しい原則を組み込んではいないものの、協定案は、ヒンドゥームスリム双方が受け容れうる、満足のいく憲法の枠組みをつくろうとする真剣な取り組みであった。「スワラージ計画概要」をダシュバンドゥ・C.R.ダースとバガヴァンダス博士が準備したのは1922年、ガヤにおける会議の後だった。
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しかし、アニー・ベザント博士の業績こそが真に先駆的で、彼女は多くの傑出したインド人指導者との協議をへて、「インド・コモンウェルス法」を1924〜1925年に提案したのだった。ベザント博士じしんはインドが大英帝国内の自治領にとどまることを望んでいたものの、古代における村落パンチャーヤット制度の理想を支持し、われわれの未来の憲法の礎としたのだった。のちの1928年、「全政党によるレポート」が出版され、これは広くネルー・レポートとして知られている。アウンド州の新しい憲法が1939年、ガンディー翁の指導のもとに作られたが、これは憲法体制発展におけるもう一つの劃期となった。そこで、パンチャーヤット自治は完全に民主主義に沿い、州レベルで確立した。憲法づくりにおける最新の労作は有名な「評議委員会レポート」で、サー=テージ・バハドゥール・サプルー議長のもとで作成された。
 しかしながら、やはり望ましいのは、憲法をインドの伝統を背景として作り上げることだ。残念なことに、われわれの指導者のほとんどは、古代インドの制度を学ぶことに注意を払ってこなかった。ガンディー翁ひとりが民族の再構築におけるこれらの側面を強調してきた。かくして、わたしはインドの自治(スワラージ)のためのわれわれ自身の(スワデシ)憲法をつくり上げるべく、かれにその助言をいただけないか頼んだ。翁はそうした憲法の必要性を全面的に評価し、わたしへの必要な指導を承諾された。わたしはその憲法を「ガンディー主義憲法」と名づけることに決めたが、それはガンディー翁がほかのだれよりもインドの文化と伝統を象徴し、支持しているからだ。そのうえ、わたしは翁と憲法のほとんどの詳細について議論を重ねており、すべての努力は彼の視点を正確にあらわすことに注がれている。
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しかし、すべてのことばや思想について、ガンディー翁にその責任を帰することはできない。究極の文責は、ひとりわたしにある。
 この冊子は、すぐにでもわが国にもたらしうる、網羅された完全な憲法であるなどと主張するものではない。ただ、根本的な意図や理想で、未来の独立したインドにおける憲法に組み込まれるべきもの、それを明らかにしているだけだ。「地域分散型の民主主義」という思想がユートピア主義とはまったく無縁であることを、わたしは強調したい。それは実際的で実現可能なのだ。総選挙後、憲法制定会議は適切な憲法をつくるという難題に直面するだろう。その一大事に、もしこの論考がわれわれの指導者や人びとをうながし、土着の伝統にもとづく憲法を組み立てることの必要に思いを至らせることができたら、わたしの労苦はじゅうぶん報われたことになる。