アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(5)

地域分散化の経済学

 むらの共産制がもつ広大な可能性はさておくとしても、分散化された農村連合組織は、経済において公平な分配への大きな導きとなる。おもにブルジョア階級が生産手段を管理する現今の資本主義社会は、世界に長続きする平和と真の豊かさをうち立てることに失敗してきた。無慈悲にも地主階級をまとめて根絶やしにした。生産装置を手中にすることで大衆の生活水準を引き上げたとはいえ、ソ連共産主義が純粋に福音だとは、どうがんばってもいえまい。その計画された巨大で強力な機械は、個々人を多かれ少なかれ疎外されたロボットに貶めてきた。その上、ロシアは近隣の国ぐににもその「羽」を広げはじめている。その意図がどんなに高尚なものであれ、国際政治においてソ連邦の果たす役回りを見るにつけ、心おだやかではいられない。われわれは、資本主義であれ社会主義であれ、どんな類いの帝国主義をもひいきするわけにはいかないのだ。大規模な中央集権化された社会主義には「帝国主義者」を育む傾向があるので、大国・小国を問わずすべての国ぐにに平和と福利と自由とが保証されるような、新しい世界秩序の先駆けとはなりえない。

1 ‘Democracies of the East,’ pp.xxv-vi.

(p.52)
 では、どこに解決があるのだろう?分散化された農家産業が、その道を指し示している。インドのむら共同体は、自由放任主義全体主義的管理という両極端を避けながら、バランスの取れた経済システムを進化させた。真剣な実験を通して、かれらは資本主義と社会主義の間に豊かで平和な中道を発見していたのだ。かれらは協同組合による農業と産業の理想的なかたちを発展させ、そこでは富者による貧者の搾取はほとんどなかった。ガンディー翁が述べているように、生産と消費・流通はほとんど同時に行なわれた。農家や地場工場が製造する商品は、遠くの市場ではなく、その場でただちに使うためのものであった。こうした自給を基礎とする小規模な地域生産は、おのずと資本主義的搾取を排除する。それは現実の経済的平等をうち立てるが、そのために個人の自由を無慈悲に削り取ったり、少数者が他のものを支配するに任せることはしない。いうまでもないことだが、ガンディー主義の理想にしたがえば、分散的な農家産業の組織は資本主義ではなく協同組合を基礎としなければならない。もしも日本のように少数の資本家が地場工場を支配するならば、むらの働き手はたんなる労働力として搾取され続けるだろう。
 古代のむら共同体にも、それじしん欠点はあった。たとえば、きびしいカースト制度は、不条理な差別を生み出した点で大いに非難されるべきものだ。またそんな昔でも、少数の金持ちセト神が存在していた。共同体には、政治的・経済的な問題をうまく調整する能力が欠けていたのだ。


セト(Set)、Seth(セトゥ)、Setekh(セテカー)、Setesh、Seti(セティ)、Sutekh(ステカー)、Setech、Sutech、Tabeh、Typhon(タイフォン)とはエジプト神話に登場する神。オシリスの弟。エジプト九柱の神々の一柱。
砂漠と異邦の神であり、キャラバンの守り神である一方で、砂嵐を引き起こしているのも彼であるとされている。神話体系内でもっとも共通する添え名は『偉大なる強さ』。荒々しさ、敵対、悪、戦争、嵐、外国の土地などをも象徴している。ピラミッド文書の一つには、ファラオの強さはセトの強さであるとの記述がある。サハラの民に信仰された神アシュ(Ash)とも関連がある。

(p.53)
かれらの一般的な生活水準は高くなく、こんにちのわれわれにとってじゅうぶん魅力的とはいえない。しかし、こうした農村共和制は成熟したインド思想の産物であり、そこに組み込まれている経済組織の原則を適切に織り合わせるならば、それはわれわれを日夜悩ませる多くの病をいやす幸福への処方箋として、戦争で引き裂かれた世界への贈りものとなるだろう。
 経済の地域分散によって、われわれは過剰な機械化の害悪をも免れうる。「機械の広汎な使用と分業とによって」カール・マルクスはいう、「プロレタリアートの労働からは個別性、すなわち職人にとっての魅力がすべて失われている」「かれは機械の添え物にすぎなくなる・・・」*1 現代の生産過程のなかで、労働者は「手足の不自由な化け物」に変形される。いっぽう、「自立した農民や手工業者は知識と洞察、意欲を発展させる。」*2 カール・マルクスは機械化された大規模生産による不利益を認識していたにもかかわらず、それらが社会主義国家では取り除かれると予測していた。しかし、「合理的な」機械化は、その社会が資本主義であれ社会主義であれ、労働者の身体・知性・道徳的な健康に対して、必ずやその不健康な影響力を発揮する。「生産と流通における私有財産制を廃絶し搾取を根絶したところで」、ボルソーディ教授は書いている、「問題の根源には到らない。」「工場そのものに宿る天性は根絶できず、いつまでも人類の災いとなるであろう。」*3 だからガンディー翁は、

1 「共産党宣言
2 「資本論
3 “This Ugly Civilization.”

R a l p h B o r s o d i
F r o m W i k i p e d i a , t h e f r e e e n c y c l o p e d i a
R a l p h B o r s o d i ( 1 8 8 6 O c t o b e r 2 6 , 1 9 7 7 [ 1 ] ) w a s a n a g r a r i a n t h e o r i s t a n d p r a c t i c a l e x p e r i m e n t e r i n t e r e s t e d i n w a y s o f l i v i n g u s e f u l t o t h e m o d e r n f a m i l y d e s i r i n g g r e a t e r s e l f - r e l i a n c e ( e s p e c i a l l y s o d u r i n g t h e G r e a t D e p r e s s i o n ) . M u c h o f h i s t h e o r y r e l a t e d t o l i v i n g i n r u r a l s u r r o u n d i n g s o n a m o d e r n h o m e s t e a d .

(p.54)
現代の工業化に反対しているのだ。しかし、かれがあらゆる種類の機械に反対していると考えるのは大まちがいである。翁は、「機械がやみくもに増えること」に対して異議を唱えているのだ。ガンディー翁の考えでは;
「機械化が善であるのは、成そうとする仕事に対して人手が少なすぎる時だ。インドのように、仕事に必要なだけよりも多くの人手があるところでは、それ(機械化)は悪である。」*1
 こんにち、機械は労働者たちをたんなる番号に貶めている。かれらは昼夜兼行でやかましく動く、巨大な機械をそなえた大工場のなかで個性を喪失してしまった。しかし小さく効率の良い機械は、何百万という農民や職人の苦役を軽くし、たしかにガンディー翁が歓迎した通り、かれらを益するものである。
 雇用という観点からも、農家産業の進展は第一に重要だ。「完全雇用」は、西側における経済計画の、最新のスローガンである。しかし、機械化された大規模生産のもとで、はたして全市民に雇用が保証されるだろうか?イギリスやアメリカのような産業が高度に発展した国でさえ何百万という人びとの雇用を確保できないでいるのに、4億の人口をもつインドのわれわれが、機械や工場を増やすことで失業問題を解決できると考えるのは果たして正当だろうか?いまのところ、わが国の大規模重工業ぜんたいでも、吸収できている労働者はおよそ200万人にすぎない。かりにボンベイの計画担当者にしたがい重工業が、たとえば5倍に推進・拡大されたとしても、そこで雇用しうるのは約1000万人であろう。

1 Harijian, 16-11-1934

(p.55)
しかし残った人びとはどうなる?インドの農民じたいはパートで雇用されるだけであり、かれらが切実に求めているのは、その乏しい収入をおぎなう副業としての産業である。だからこそ、広汎な大衆による農家産業こそが正解なのだ。「大量生産」に取って代わるべきは、数限りないむら共同体の、大衆による組織的な生産である。少数の重工業あるいは「基幹」産業も、現代の経済計画にはもちろん必要であろう。しかし、ガンディー翁の断固とした主張によれば、これら基幹産業は国有あるいは国営化されねばならない。
 われらが農村共和制における農家産業がもしや「不経済」なのでは、と怖れるのは止めにしよう。ヘンリー・フォードは現代世界が生んだもっとも卓越した産業主義者のひとりだが、かれの主張では「一般法則として、大規模プラントは経済的でない。」*1 つまり、製造工程を中央集権化することに意味はないのだ。「生産物は」フォード氏いわく、「全国で使われるものに関しては、国じゅうで作るべきだ。それは輸送を省略するとともに、購買力をより均等に配分する。」フォード氏にとって究極の理想は、「完全な地域分散化、そこでプラントは小型化され、働き手が農民であるとどうじに産業者でもあるように配置される。」「それは、個人のより全般的な独立をうながすだけでなく、より安価な商品や食品を可能にするであろう。」*2 ルイス・マンフォードの洞察でも、「小規模な単位による生産は、生産物の多様化と迅速な適応が可能であり、大規模な生産単位よりも経済的である。」*3

1 ‘Today and Tomorrow,’ p.109.
2 ‘Moving Forward,’ p.157.
3 ‘The Culture of Cities’ p.342.(「都市の文化」鹿島出版会

(p.56)
 資本主義社会は、その大規模で中央集権化された生産によって、しばしば世界を血みどろで壊滅的な戦争へと投げ込んできた。これら生命やお金の悲しむべき喪失はすべて、大規模生産の代償に含まれるべきではないだろうか?こうした現実的考慮からいえば、生産の機械化は実のところ、たいへん高価で不経済なのだ。
 地域分散化の経済学については、拙著「ガンディー主義者の構想」1)でより徹底した議論を行なっているが、この冊子でそれら詳細に立ち入るのは適切ではあるまい。

1) Agarwal,‘The Gandhian plan of economic development for India,’ Padma Publications Ltd, 1944.