アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(4)

インドの村落共和制

 地方自治は、産業革命前のヨーロッパ各国では、多くの小さな村むらで行なわれていた。その協同生活のよい記録を、クロポトキン王子[ママ:訳者註]の「相互扶助論」にみることができる。中国と日本もまた、分散されたむら組織のもっとも古い故郷のひとつである。しかしながら、われわれは正当にその事実を誇ってよいのだが、こうした地方自治の制度は、「インドにおいてもっとも早く発展し、またもっとも永く存続してきた。」*2 むら共同体は、わが国においては太古から存在していた。

1 ‘Political Ideas’ p.41.
2 ‘The Economic History of India’ by R.C.Dutt.

(p.45)
そのしくみはプリトゥ王により、ガンジス川とジャムナ(ブラマプトラ)川もたらされたのが最初だと信じられている。マヌ法典と「マハーバーラタ」のシャンティパルヴァ(平和の巻)では、グラムサンガ(村の長老組織)について多くの箇所で触れている。これらの村落共同体のようすは、紀元前400年代にカウティリヤ(チャーナキヤ)が「実利論(アルタサストラ)」で述べていることが知られている。ヴァールミーキの「ラーマーヤナ」に出てくる「ジャナパダ」とはおそらく、おびただしい数のむら共和国の連合体であろう。ギリシャアレクサンドロス)による侵略の頃のインドには、このシステムが広く行き渡っていたことはたしかだ。メガステネスは「五極」−かれはパンチャーヤットをそう呼んだ−のいきいきとした印象を伝えている。中国の旅行者、玄奘三蔵と法顕は、かれらが訪れたころのインドがどれほど繁栄していたかを伝えており、人びとは「比べようがないくらい富裕で幸福である。」7世紀における村落連合のようすは、シュクラチャリヤの「ニティサーラ」にその記録がある。

じっさい、インドの村落が統治の基礎単位だと見なされていたのは、古くは初期ヴェーダ時代にまでさかのぼる。グラーミニあるいは村の指導者については、リグ・ヴェーダに述べられて(X. 62. II; 107’5)いる。グラム・サバスあるいは地方の村落集会については、「ジャータカ」にも資料がある。シュレニとは、商人ギルドをさすよく知られたことばであった。「村は、ヴェーダ時代の後も、統合された政治単位だと、ずっと考えられていた。だからヴィシュヌとマヌの法典は、村を国家の組織における最小の政治単位と

法顕
http://www.weblio.jp/content/%E6%B3%95%E9%A1%AF

(p.46)
見なしている。」*1ダルマ・スートラ(律法経)やダルマ・シャーストラ(古法典)にひんぱんに現れる「ガーナGana」と「プーガPuga」の語は、ともに村や町の組織のことだと思われる。考古学的な証拠として数多くの古代碑文が、こうした地方自治制度が広く行き渡っていたことへの、文学作品における証言を裏付けている。
 インドの農村共和制は、ヒンドゥームスリム、ペーシュワー(宰相)の各王朝のあいだも繁栄し、それは東インド会社の到来まで続いた。王朝が破滅しようと、帝国が衰退しようと生き延びた。「地方統治の独立した発展は、カメの甲羅の役割を果たした。それは政治的動乱の嵐が国じゅうを吹き荒れた時も、民族文化が安全に身を隠すことのできる平和な避難所であった。」*2 王は国家収入を村落連合から受け取るのみで、おおむねその地方自治には干渉しなかった。チャールズ・トレヴァリン卿が記している通り、「外国からの征服者が、つぎつぎとインドを一掃して行った。しかし、村落自治体はまるでそこに生えるクシャ草のように、しっかりと大地に根を下ろしていた。」「インドは、世界のほかのどの国よりも多く、宗教と政治における革命を経てきた」と、ジョージ・バードウッド卿はいう。「しかし、村落共同体は、その自治の活力を完全に、インド半島全体にわたって保ち続けた。スキタイ人ギリシャ人、サラセン人、アフガン人、モンゴル人、マラータ人が山々を越え下りてきた。また、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、フランス人、デンマーク人が海から上がってきた。

1 ‘Corporate Life in Ancient India’ by R.C.Majumdar, p.141.
2 ‘Local Government in Ancient India’ by Dr.Radha Kumud Mookerji, p.10.

(p.47)
かれらは入れ替わり立ち替わり国土を支配したけれども、その往来は、宗教で結びついた村むらの連合にほとんど影響を与えなかった。あたかも潮の満ち引きが岩に対するのと同じように。」*1 その全盛期である1830年、当時インド総督であったチャールズ・メトカルフェ卿は書いている。

「村落共同体は小さな共和国で、必要なもののほとんどを備えており、外部との関係ではほぼ独立している。共同体は、他のものがすべて消え去っても続いて行くだろう。王朝が生まれては倒れ、革命のあとを革命が襲った。・・・しかし村落共同体は変わらなかった・・・この村落共同体の連合では、各々の共同体がそれ自体で一つの独立した小国家を形づくっている。わたしの想像では、この連合はほかのどんな要因よりもインドの諸民族の存続に貢献し、かれらを襲った多くの革命や変化にもかかわらず、人びとが幸福や大幅な自由と独立を享受する、大きな支えとなった。そういうわけで、村の政治的しくみにはけっして手出ししないことを願い、それを破壊するようなどんな傾向をも怖れる。」*2
 しかし、運命(の神)はそうでない方を望んだ。法外で恥知らずなまでに貪欲な東インド会社は、こうした村落パンチャーヤットを徐々に解体していった。
用心深いライヤットワーリー制の導入は村有地制に対抗したもので、村共和制の協同生活に対する死の一撃となった。

1 ‘Industrial Arts of India,’ p.320.
2 ‘Report, Select Committee of House of Commons, 1832’
The ryotwari system, instituted in some parts of British India, was one of the two main systems used to collect revenues from the cultivators of agricultural land. These revenues included undifferentiated land taxes and rents, collected simultaneously. Where the land revenue was imposed directly on the ryots -- the individual cultivators who actually worked the land—the system of assessment was known as ryotwari. Where the land revenue was imposed indirectly—through agreements made with Zamindars -- the system of assessment was known as zamindari. In Bombay, Madras, Assam and Burma the Zamindar usually did not have a position as a middleman between the government and the farmer.

(p.48)
すべての執行および司法権力がイギリス人官僚の手のうちに集められ、それは村役人から、かれらが終身で持っていた権力と影響力とをうばったのである。
 「東洋と西洋の村落共同体」において、ヘンリー・メイン卿はいう。「インドの村共同体は、生きている制度であり、死んではいない。」 バーデン・パウエルは「インドの村落共同体」において、これらの集落についての徹底した評価を、われわれに与えている。アルテカル教授の「西インドにおける村落共同体の歴史」は、わが国の農村連合のはたらきに関する貴重な記録である。しかし、いまのところこの件に関する最良の議論は、ラダクムード・ムカルジー博士の「古代インドの地方政府」とラダカマル・ムカルジー博士の「東洋の民主制」に見出される。
 しかしながら、インドの農村共和制の組織について事細かに述べ立てるのは、この冊子の目的から外れることだ。ここでは、イギリスによるインド統治のもっとも悲しむべき結果のひとつは、この村落の自治というシステムが消滅したことである、とだけ述べればじゅうぶんであろう。イギリスは、地方自治政府をインドのやり方でなく、かれら自身の方向で異国調に作り上げようとし、それが悲劇的な失敗に終わった理由である。アニー・ベザント博士が述べるように、「村役人のよび名は昔のままだった。しかし、かつての村パンチャーヤット*1は、かれらが責任を負う村の家長たちによって選ばれていた。それに対し、いまの村役人は政府の官僚に対して責任を負うので、村役人の利得はいかにかれらの歓心を買うかにかかっており、

1 In “The Political Institutions and Theories of the Hindus,” Dr. B. K. Sarkar points out that the Village Councils came back to be described as “Panchayats” during the Middle Ages.

(p.49)
かつての選挙人たちを満足させることではないのである。」*1
 欠点がないとはいえないものの、インドの村落共和制は、純粋な民主制と自治に関する注目すべき実験なのである。近代に発展をとげた中央集権化された統治は、適切な地域ごとの集団生活を欠くばあい、どこであれ政治を殺伐とした機械的なものに変えてしまう。そこに生じるのは、個人的な利益と集団あるいは国家の利益との絶え間ない衝突だ。しかし、インドの農村パンチャーヤットは、これらのぶつかり合う利害の統合に成功し、また社会的政治生活を血の通った生産的なものにしてきた。アチャリヤ・ヴィノーバが書いている通り、これらのグラム・サバスでは個々人は自分自身の王であるが、どうじにかれは仲間市民との絆に拘束される。*2 各人は個性をあらゆる方向に発展できるいっぽう、すべての市民は責任ある有用な、小国家の構成員である。村落共同体が体現する政治権力の分散化はとうぜん、西洋的な権力の委譲や分散化とは大きく異なっている。インドのそれは領域におけるとどうじに機能における分散化であり、その結果は政治生活における、社会的利害と自発性との調和である。
 インドの農村共同体は、近代的民主政府をむしばむ害悪のほとんどを免れている。「貨幣経済」はほとんど存在しないため、ワイロや買収はないに等しい。組織的かつ攻撃的な資本主義の不在は、民主主義を「横領」から救っている。

1 ‘India: Bond or Free?’, p.29.
2 ‘Swarajya-Shastra’ (Hindi Edition), p.47.

(p.50)
小さな選挙区では、選挙はたいてい全員一致で直感的に行なわれる。全面的な尊敬を集めるような村の長老たちは、村から自然と選ばれるので、「選挙技術」に労力を費やす必要が少しもない。広範な分散化と自治の結果、村の集会で業務が渋滞をきたす可能性はほとんどない。かくしてインドの民主制は直接かつ力強く、ポジティヴで生産的かつ非暴力であり、間接かつ鈍重、ネガティヴで非生産的かつ暴力的な現代の民主制とは対照をなす。だからこそ、土着の制度をよみがえらせ、真の独立のための未来の憲法の基礎とすることが望まれるのだ。ラダカマル・ムカルジー博士がしばしば主張するとおり、インドの分散的な民主制は、たんに「西洋的政治手法のものまねよりも[インドに:訳者註]適しているとか生命力がある、というだけにとどまらず、西洋の略奪的な権力や巨大な帝国がくり広げる奇妙で入り組んだゲームに幻惑された、人類の政治史に対する東洋からの独自の貢献となるであろう。」ムカルジー博士は続ける。
「それが設(しつら)えるのは、政治を組織するための新たな基礎である。そこでは、さまざまな地域のさまざまな機能をもつ集団が恊働し、未来の国家の構成を、ローマン=チュートン的あるいはそれを引き継ぐ議会政治の枠組みより、より満足の行くものとするであろう。じっさい、東アジアの文化がもつ共同かつ統合的な性質のうえに構築されたそれ[政治体]は、いまのようなアジア的な知性と道徳の結合が存続するかぎり、この時代の新たな社会的・政治的実験に利用しうる、豊富かつ価値ある資料を提供するであろう。

(p.51)
世界じゅうで人間性は、機械的かつ略奪的な、冷たく制度化された規則に閉じ込められている。こんにち、社会を組み立てる新たな原則ほど、必要とされているものはない。そこで東洋人とかれらの忠誠心は、その天賦の才と本能とを、自然で柔軟性あるグループにおいてふたたび自由に表現するであろう。」

1 ‘Democracies of the East,’ pp.xxv-vi.