寛政の改革=江戸時代の転換点

 試合、成績、恋愛、人生、なににつけ山場やどん底、上り下りはつきものだ。1603年から1868年まで260年以上続いた江戸時代にも、やはり誕生から繁栄、そして滅亡のドラマがあった。

 山登りにたとえて、その大まかな姿を描いてみよう。短い上り下りはあちこちにあるとしても、頂上、つまりぜんたいに上りから下り坂に変わる地点はないだろうか?
 それは1787年あたり、教科書みたいにいうと田沼時代が終わり寛政の改革がはじまるところだ。江戸時代を人生80年に縮めると56歳にあたる。

 上り坂、つまり田沼時代までの江戸幕府は、ひとことでいうと「攻め」、商品が増え人びとの生活がより豊かになる方へ、社会を積極的にプッシュする役割を果たしてきた。

 戦国時代が終わり、平和が訪れるとともにはじまったのが城下町の建設ラッシュ、今でいうとビジネス街や住宅地の造成ブーム。それが一段落したあとは幕府や藩の予算も少なくて済んだので年貢、つまり税も軽くなって、人びとが遊びや買い物に使えるお金が増えた。バブルな元禄時代のはじまりだ。そのころ呉服屋で大もうけした三井さんの越後屋が、いまの三越デパートや三井住友銀行のルーツになっている。

 景気のよさにまかせて中国や朝鮮からの輸入品に気前よく金銀を使ってしまい、国内にお金が回らなくなって元禄バブルは終わるが、それを盛り返したのが8代将軍の徳川吉宗
 吉宗の、享保の改革といえば武士の質素倹約や農民への年貢強化が有名だが、いっぽうで輸入にたよっていた絹や朝鮮人参、砂糖が国産化され、漆(うるし)やロウソク、ミカンなどの特産物も開発されて全国に運ばれ、農村でもお金が稼げるようになって経済は拡大した。農民が酒や着物を自分で作らず、質のいいものをお店で買うようになったのはこのころだ。

 そして攻めの経済をさらに押しすすめたのが、側用人(将軍直属の秘書兼ブレーン)から老中(いまでいうと大臣)になり、10代将軍家治の絶大な信頼を得ていた田沼意次蘭学者で発明家の平賀源内のスポンサーでもあっただけに、その政策は進んでいた。
 幕府の新しい収入として、商人に農地の造成など特権を与える見返りに税金を取り、金銀の代わりに豊富な海産物の干物などを長崎から積極的に輸出し、関東と関西で共通の貨幣(そのころ関東では金、関西では銀を使っていて、交換比率も円とドルのように毎日変わっていた、つまり経済は別々の国同然だった)をつくり、印旛沼(千葉県)の干拓蝦夷地(北海道)の開発といったビッグプロジェクトをつぎつぎと打ち出した。一説にはロシアとの貿易も考えていたという。地方の庶民文化も豊かになり、俳句や狂歌、華やかな浮世絵や洋風画が全国に流行した。

 ところが浅間山の大噴火による天明の大ききんが起き、後継者になるはずの息子・意知も暗殺されて意次は失脚、代わって老中・松平定信寛政の改革をはじめると、「攻め」は極端な「守り」に一転する。下り坂のはじまりだ。

 吉宗の孫に生まれながら将軍になれなかった定信は、将軍家治の代わりに、低い身分からトップに成り上がった意次を逆うらみしていたともいう。それくらい政治の方向は正反対だった。
 蝦夷地開発をはじめ意次のプロジェクトをつぎつぎと中止に追い込み、日本の外国への関係を初めて「鎖国」と呼んだのも定信だった。都市へ働きに来ていた農民を強制的に村に返し、消費や娯楽、着物の柄までを制限し、武士の借金を踏み倒し、好景気をいっきに冷え込ませた。さらに洋書の輸入を禁止し、そのころ花開いていた蘭学や幕府への批判など自由な言論を弾圧した。「田沼意次=ワイロまみれの汚い政治家」という、つい最近まで信じられてきたデマを流したのも、意知暗殺の黒幕と疑われているのも定信である。そして、活躍の機会を失った平賀源内は絶望のうちに狂死する。

 上り坂の時代に発展した経済や百姓・町人の生活は、その後も大きく揺らぐことはなかった。人びとが売り買いする物やお金の大きさに対して、武士があつかう年貢やお金の量は江戸時代はじめのようには影響を及ぼさなくなっていたからだ。

 しかし幕府の政治は寛政の改革からあと、あらたな発展の足を引っ張る方向に変わる。
 つづく天保の改革も、人びとへの政策はぜいたくの取り締まりなど代わりばえせず、そのうえ幕府の利益を優先し大名の領地を取り上げようとして反発を買い、2年で失敗。各藩は自国の改革に専念するようになる。下火になった蘭学の空白は、出世のための試験科目に過ぎなくなった儒学や、外国の影響を排除したところに日本独特の精神を見ようとする独りよがりな国学が埋めた。そして定信が共通貨幣を廃止してから明治時代まで、日本の通貨すなわち経済は統一されることがなかった。幕末の、日本の混乱や分裂はすでに種がまかれていたのだ。

 寛政の改革と前後してアメリカが独立し、フランス革命が起き、イギリスでは産業革命がはじまり、欧米諸国のアジア進出が加速した。そして幕府の失政を尻目に、西日本には改革や密貿易によって幕府にせまる実力をたくわえた藩が現れてくる。寛政の改革からペリー来航(1853年)までの時間は、江戸幕府が日本にも世界にも属さなかった「失われた60年」と言えなくもない。