大義を世界に〜横井小楠の「公」

 小説家・司馬遼太郎は明治日本を「“青写真”(註1)なき新国家」と呼んだ。ふん、聞こえはいいけど、それって要は「無計画な計画」ってことじゃないだろうか。

 たしかに明治維新直後の、新政府の構想は大したことがなかった。そのことは、はじめ政府組織が1000年以上昔の奈良時代そのままで、そのあと内閣、国会、憲法など欧米の借り物パーツを慌ててくっつけたことからも分かる。テロと陰謀とクーデターで転がり込んできた政権だけに、当然といえば当然だが。

 では「青写真」はどこにもなかったのか。いや、少なくとも横井小楠にはそれがあった。熊本出身の学者で、坂本龍馬の先輩にあたる勝海舟西郷隆盛とならんでもっとも畏(おそ)れていた人物だ(註2)。

 ペリー来航の1853年にすでに45歳だった小楠は、ポスト江戸幕府の政治の方向をすでに見定めていた。それは、儒教をベースにした正義と道徳に基づく政治、家柄や身分に関係なく、努力と討論をつうじて学問(ただし受験や就職ではなく、より高い道徳や実社会の問題を解決するための知識や能力を身につけること)を修めた者がリーダーとなり、天下すなわち人びとのために尽くすことだった。その結果みんながいっしょに学び協力してやって行く政治を、彼は「公」と呼ぶ。これは、いま「共和制」と呼ばれるものとほとんど変わりがない。なるほど、英語にすると前者は「パブリック」、後者は「リパブリック」だ。

 しかし、小楠はただ理想を述べただけではなかった。全国を旅して各藩の政治を研究し、それをもとに福井藩松平慶永にブレーンとして仕え、藩の改革を成功させる。
 それは、「財政を立て直そうと人びとから税をしぼり取るのでは、大名が「私」の利益をむさぼっているにすぎない。まず人びとを富ませ、結果として藩全体も豊かになる方向をめざすべきだ」という彼の「公」の哲学に基づいていた。
 まず藩の要職にある武士たちを学校で教え、その考え方を徹底させた。そして藩は人びとの事業に必要なお金を貸し、また商人に代わって生産物をなるべく高く買い上げ全国に販売、また長崎に置いた藩営の商社から海外に輸出した。その輸出高は年間300万両、少なく見積もっても現在の1000億円。藩の財政はいっきに好転した。

 このことは幕府にたいする慶永(は徳川慶喜の強力なスポンサーだった)の発言力を強め、小楠の名も全国に知れわたっていく。海舟、龍馬、慶喜吉田松陰が彼のもとを訪れ、助言を求め、教えを受けた。龍馬の「船中八策」、明治政府の「五か条の御誓文」も、そのアイディアは小楠(註3)にさかのぼる。

 しかし、なにより小楠のユニークな点は、そのグローバルな視野だ。
 小楠は、アメリカ帰りの海舟の情報なども通して欧米の民主政治を深く理解し、幕府や清・朝鮮の、支配者の「私」益しか考えない腐った政治よりも優れていることをみとめていた。しかし、ペリーの武力と脅しによる開国、欧米諸国のアジアでの横暴なふるまいなどを見聞きし、その限界にも気づいていた。かれらの政治は、たとえ良いものであっても自国の利害や打算、つまり「私」を抜け出せない。しかし日本またアジアは儒教の正義に基づき、他の利益を尊重し合う「公」を行ない、侵略ではなく貿易によって発展し、その利益で日本・中国・朝鮮共同の海軍を設けて外敵を防ぎ、対等な話し合いをつうじて国境を越え大義(普遍的な正義)を広げて行くことができる(註4)ーー果たしてこれだけ巨大な理想が、同じ時代にあっただろうか。

 しかし、と問う人もいるだろう。そういう人物がほとんど知られてもいなければ教科書にも載ってないのはなぜだ?

 ひとつはその早すぎる死だ。大久保利通木戸孝允ととも明治新政府の中心を担う立場にあった小楠は、明治2年に暗殺されてしまう。そして彼の「公」を理解し受け継いだのは、むしろ勝海舟榎本武揚など、新政府に敵対した幕府側の人びとだった。

 もうひとつの、おそらく最大の理由は、小楠の思想がその後の明治政府、ひいては日本の針路とはまったく相容れなかったことだ。身分や血統を廃し、大義にのっとる人びとのための政治、というかれの「公」は、明治政府の「公」、天皇や薩摩・長州出身の有力者を頂点とする身分制によって支配され、特権グループの利益を「国益」、侵略戦争の口実を「大義」と言いかえ、人びとに命令し服従を強いる政治(それは小楠にとっては「私」の極みだったにちがいない)へとすり替えられて行った。

 そして小楠のなかで、グローバルな正義を実現する手段として一つだった「開国」と「富国」は、明治政府では、一国の利益のため、アジアを捨て欧米の一部になろうとする「文明開化」と縄張り争いの手段である「富国強兵」に反転し、現在も日本は両者のあいだをさまよっている。小楠の描いた日本は、いまだ未来にしかない。

(註1)白地に青色のコピーで、建物など大きい図面によく用いられる。ここでは、大まかな計画を意味する。
(註2)「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠西郷南洲[=隆盛、筆者註]とだ。・・・もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。」(勝海舟「氷川清話」講談社学術文庫
(註3)「国是七策」。また誓文の原型をつくった由利公正(三岡八郎)は福井藩士時代、小楠の指導で藩の改革に携わっていた。
(註4)小楠は、アメリカ留学に出かける息子たちにつぎの詩を贈っている。
明堯舜孔子之道
尽西洋機械之術
何止富国
何止強兵
大義於四海而已
(大意:古代の王や孔子の道徳を学び、西洋の技術をマスターするのは、富国強兵どころではない、世界に大義を広めるためなのだ)