学問のすゝめ考

以下、引用するのは江戸時代の寺子屋でポピュラーだった漢文テキスト「実語教」の訓読ヴァージョン。これが幕末維新期の若者の基礎教養だったことを考えると、福沢の「学問のすゝめ」がすんなり受け入れられたのも頷けるし、またあれは「実語教」の現世利益丸出しヴァージョンに過ぎなかったのでは、と思えてくる。福沢はやはり西洋思想家というより腐れ儒者なのだ。

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実語教

山高きが故に貴(たつと)からず。
樹(き)有るを以て貴しとす。
人肥へたるが故に貴からず。
智有るを以て貴しとす。
富は是(これ)一生の財(ざい)。
身滅すれば即ち共に滅す。
智は是万代(ばんだい)の財(たから)。
命(いのち)終れば即ち随つて行く。
玉磨かざれば光無し。
光無きをば石瓦(いしかわら)とす。
人学ばざれば智無し。
智無きを愚人とす。
倉の内の財(ざい)は朽つること有り。
身の内の才(ざい)は朽つること無し。
千両の金(こがね)を積むと雖も、
一日(いちにち)の学には如(し)かず。
兄弟(けうだい)、常に合はず。
慈悲を兄弟(きやうだい)とす。
財物(ざいもつ)、永く存せず。
才智を財物とす。
四大(しだい)、日々に衰へ、
心神(しんしん)、夜々(やや)に暗し。
幼(いとけな)き時、勤め学ばずんば、
老ひて後、恨み悔ゆると雖も、
尚(なを)所益(しよゑき)有ること無し。
故(かるがゆへ)に書を読んで倦むこと勿(なか)れ。
学文に怠(をこた)る時勿れ。
眠(ねぶ)りを除ひて通夜(よもすがら)誦(じゆ)せよ。
飢へを忍んで終日(ひねもす)習へ。
師に会ふと雖も、学ばずんば、
徒(いたづら)に市人(いちびと)に向ふが如し。
習ひ読むと雖も、復さざれば、
只隣(となり)の財(たから)を計(かぞ)ふるが如し。
君子は智者を愛す。
小人は福人(ふくじん)を愛す。
冨貴(ふうき)の家に入(い)ると雖も、
財(ざい)無き人の為には、
猶(なを)霜の下の花の如し。
貧賤の門(かど)を出づると雖も、
智有る人の為には、
宛(あたか)も泥中(でいちう)の蓮(はちす)の如し。
父母は天地の如く、
師君は日月(じつげつ)の如し。
親族は譬(たと)へば葦(あし)の如し。
夫妻は猶(なを)瓦(かはら)の如し。
父母には朝夕(てうせき)に孝せよ。
師君には昼夜に仕へよ。
友に交はつて諍(あらそ)ふ事なかれ。
己(おのれ)が兄には礼敬(れいけい)を尽くし、
己(おのれ)が弟(をとゝ)には愛顧を致せ。
人として智無きは、
木石に異ならず。
人として孝無きは、
畜生に異ならず。
三学の友に交はらずんば、
何ぞ七覚の林に遊ばん。
四等(しとう)の船に乗らずんば、
誰(たれ)か八苦の海を渡らん。
八正(はつしやう)の道は広しと雖も、
十悪の人は往(ゆ)かず。
無為(むゐ)の都は楽しむと雖も、
放逸の輩(ともがら)は遊ばず。
老いを敬ふことは父母の如し。
幼(いとけな)きを愛することは子弟の如し。
我、他人を敬(うやま)へば、
他人亦(また)我を敬ふ。
己(おのれ)人の親を敬へば、
人亦(また)己(おのれ)が親を敬ふ。
己(おのれ)が身を達せんと欲せば、
先づ他人を達せしめよ。
他人の愁いを見ては、
即ち自(みづか)ら共に患(うれ)ふべし。
他人の喜(よろこ)びを聞いては、
則ち自ら共に悦ぶべし。
善を見ては速(すみ)やかに行(をこな)へ。
悪を見ては忽(たちま)ち避(さ)け。
悪を好む者は禍(わざはひ)を招き、
譬へば響きの音に応ずるが如し。
宛(あたか)も身に影の随(したが)ふが如し。
善を修する者は福を蒙(こうむ)る。
冨めりと雖も貧しきを忘ることなかれ。
或ひは始め冨みて終はり貧しく、
貴(たつと)しと雖も賤(いや)しきを忘るゝことなかれ。
或ひは先に貴く終(のち)に賤し。
それ習ひ難く忘れ易きは、
音声(をんじやう)の浮才。
又学び易(やす)く忘れ難きは、
書筆の博芸。
但し食有れば法有り。
亦(また)身有れば命有り。
猶(なを)農業を忘れざれ。
必ず学文を廃することなかれ。
故(かるがゆへ)に末代の学者、
先づ此(この)書を案ずべし。
是(これ)学問の始め、
身終はるまで忘失することなかれ。