震災被災者にベーシック・インカムを

家族や財産を失い、ふるさとさえ放射能に奪われかねない被災地の人びと。その立ち直りへの経済的な足がかりとして、BI(ベーシック・インカム=基礎所得保障)に勝るものはない。

BIとは簡単にいうと、社会生活を営むに足る一定額の所得を、受給資格を持つすべての人に一律に支給するしくみだ。

おそらく「被災者」と一括りにされる方々も、そのニーズは各々異なり、また多様だ。移転、新築、食料、医療、福祉、保育、教育、農機具、漁船、コミュニティのインフラ整備、などなど。それらにいちいち別の補助金や給付制度を設けていては効率が悪く、掬いきれないすき間が増えるだけだ。公務員の増員も必要になり、人件費に食われる分が大きくなってしまう。

ならば、はじめから一括して給付し、使い方は各々で、あるいは家族や地域で話し合って決めてもらえばよい。それでも足りない時のためには無利子・低利融資や個別の社会保障を用意すればよいが、これらは既存のシステムを拡張すればじゅうぶん可能だろう。

BI方式のもう一つの利点として、給付される側のスティグマ(精神的な烙印)が少ないことがあげられる。生活保護を受けている=落ちぶれてしまった、という自覚に、意欲を減退させる効果があることは立証済みだ。周りのみんなが権利として一律に受け取っているものであれば、そうしたマイナスの効果は少ない。

しかし財源はどうするのか?簡単だ。特別法を制定し、かつて世界恐慌が日本を襲ったときのように、莫大な国債を日銀に買い取らせ現金を放出すればよい。BIではないが、そのマネーサプライと需要創出で日本は世界でもいち早く財政立て直しに成功し、その効果は立証済みだ。あるいは政府が紙幣なり使用期限付きの金券なり電子マネーを発行する、それだけのことだ。

それではハイパーインフレが起こるではないか?復興にともない発生する需要の大きさを考えれば、こうした「震災マネー」に使い道がなくて困る、ということがあるだろうか。需要があって支払われるかぎり、インフレを心配する必要はない。むしろこの状況では、所得を失うことで需要が収縮することにともなうデフレこそ、もっとも警戒を要するものだ。ちなみに、被災者がきちんと所得を得ている、という認識は、過剰な自粛ムードとそれにともなう不況を抑える上でも役に立つだろう。

それでも、一部の人間だけがなにもしないで所得を得るのは許せない、というのか。そう思われる人は、新約聖書のことばに耳を傾けるがよい;

マタイによる福音書20章1〜16節
(1) 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
(2) 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
(3) また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
(4) 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
(5) それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
(6) 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
(7) 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
(8) 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
(9) そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
(10) 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
(11) それで、受け取ると、主人に不平を言った。
(12) 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
(13) 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
(14) 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(15) 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」

堪えがたい不幸に見舞われた人びとは、そのことですでに赦されているとは思わないか。最後のひとりが暮しを取りもどすまで、それを支えることは不道徳なことなのか。道徳と金銭的な損得を前に、われわれはどちらの道を進むべきなのか。

震災BIへの道を阻むものはない。これはひとえに、為政者の決断にかかっているといえよう。