反原発運動の回顧と展望 (初出2011.3.27)

80年代末に一時期大きな盛り上がりを見せ、そしてなぜか衰退した日本の反原発運動*1。それを振り返ってみる時、大きな課題(ハードル?)は社会運動に関わる人びと、ひいては現代日本人の思考パターンを再考し再構築することではないかと思われる。

多少なりともその中に身を置いたものとして、そもそも認識が間違っているのは「主婦もまきこんだ運動」といった解説だ。実態はまきこんだのが主婦の方であって、巻き込まれたのが男性を中心とするややくたびれた在来の運動家、というのが正確なところだ。

それは原発を止めることにつながらなかったのか、成果はなかったのか。とんでもない。そのご新規の原発建設は大幅に減速し、自治体そのものも慎重になり中止・撤退が続いた。しかし、あの時点で運動の盛り上がりがなければ、先に建設が始まっていたらどうなっていたか。石川県珠洲三重県芦浜、新潟県巻町、山口県上関(反対運動継続中)といった成功例が語られないのは不思議なことだ。

また、いまどき考える頭のある中高生なら「原発はなければないに越したことはない」と思っている人が9割超だろう。また、原発反対を公言しても気違いか宗教カルト扱いされることはない(かつてはされた)。少なくとも「それはそうだけど、でも止められないでしょう」といった程度の反応は返ってくるようになった。これは、「無限のエネルギー」に未来の夢を託していた80年代には考えられなかったことだ。核燃料サイクル計画が事実上頓挫し、少なくとも実用化される前に燃料ウランが枯渇する可能性が極めて高くなったいま、原子力は後始末の厄介なワンウェイエネルギーに過ぎない。

にもかかわらず、反対派までが一つダメなら全部ダメといった思考に陥り、成果をきちんと評価できないでいるのは推進派を利するだけだろう。あのバブル全盛期の悪すぎる(反省にはほど遠い)状況にしては健闘したのであって、決して自己嫌悪とか敗北感とか無力感とか罪悪感に苛まれる必要はない。また今はそんな状況ではないのだ。日本的「自己責任」は責任を取れない事柄にまで自分の責任を認め罪をかぶろうとする(だから「自虐史観」は「自己責任史観」と言い換えた方が良いかも)ことだが、反原発派まで無意識にそれをやっている。

事故の後ふたたび売れはじめた広瀬隆氏の書いたものには、たしかに間違いやオカルトな見解が含まれているとは思う。しかし一方で、彼の立ち方は立派だとも思う。なぜなら、あくまで一人のカルトライターを任じ、決して運動の中心を担ったり引き回そうとはしない(あるいはそういう役割を求められない?)からだ。昨今は広瀬氏よりもっとカルトな物書きはいっぱいいるし、金融・投資関係にだってその手合いは多い。若い人が奇異に感じることはあまりなく、おそらく変な意見はスルーされるだけだろう。

むしろ運動を強力に萎縮させたり悪質だったのは、いわゆる市民運動家の無意識の前衛党主義とか、「原発反対派がじつは原発を作らせてきた!」といった全共闘世代の内ゲバ思考*2のほうだ。かれらが新しく加わった人びとのアラ探しをし、理論的に教導し、事務能力に物をいわせて運動体を引っ張るにつれて、主婦やいわゆるふつうの人びとはどんどん語るべき言葉を奪われて行ったようだ。まさしく文化の帝国主義だ。

このへんはたしかに、生活の根が細い東京人の運動の弱点ではあると思うが、経験者の側がもう少し人びとのエネルギーや内側からのことばを大事にしていれば、結果は違っていたのではないか。その意味でも、今回の事故は新しい動きが生まれる契機にはなるかもしれない。年長者が謙虚に経験を伝え知ったかぶりをし過ぎなければ、だが。

これはおそらく成功経験の少なさとも関係するのだが、善悪取り混ぜて、社会変革なるものが一回でうまく行くことなどまずないのは、歴史を観れば自明ではないだろうか。このへんは、日本史上の人物でモデルになるのは後醍醐天皇くらいか。真言立川流はともかく、あのしつこさは(だから史上まれに見る天皇なのだが)見習うべきだろう。

いずれにせよ、東電・政府・メディアの反・反原発キャンペーンが突いてくる弱みは、「原発を認めてきた私たちも悪い」「反対運動も力不足という点では同じだ」といった、一見物わかりの良い一億総懺悔風の思考パターンであろう。そこでは第二次大戦の戦争指導者同様、政府や東電の犯罪的な責任は必ずや曖昧にされる。しかし、そうした思考法を現・元反原発派もかなり共有しているように見受けられるのが心配だ。軽やかに悔い改め、ふたたび声を上げるべきときではないだろうか。勝手に萎えているゆとりはないはずだ。

1  一部(全部ではない)は「反原発ニューウェーブ」とも称した。

2 「我こそ最先端」と先達を切り捨てて顧みない思考は、残念ながら根強いようだ。しかし、先のものもいずれは後になる。