アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第3章

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III
岐路に立つ民主主義

 第一次世界大戦を戦ったのは「世界を民主主義にとって安全な場所にする」ためであり、戦争を永遠に終わらせるためであった。しかしその戦後、世界は悲しいまでの幻滅を味わった。平和をうち立てる代わりに、ヴェルサイユ条約はより悲惨な第二次世界大戦への土台を築いてしまった。世界を民主主義にとって安全な場所にする代わりに、戦後世界が直面した問題は、世界が民主主義から安全な場所になっていくことであった。民主主義時代に招(よ)び込まれた暴力的なたくらみから、ヨーロッパの全体主義体制が生まれ落ちた。これらの独裁体制と戦うために、民主主義をかかげる政府は、意識的にであれ無意識にであれ、かれら自身の土地からも民主主義を追放していった。大西洋憲章によると、第二次世界大戦を戦うのは「すべての人民が、かれらがそのもとで生活する政府を択ぶ、その権利を尊重する」ためであった。しかし、連合国の野蛮なまでの率直さのおかげで、憲章はつつがなく、しかも戦争がまだ進行しているあいだに大西洋の底へ沈められた。おかげで、のちに幻滅を引き起こさずに済んだのかもしれないが。したがって勝利への大きな「Vサイン」は、現実には新たな戦争だけを指していたのだ。またサンフランシスコ会議が進行するにつれ、あらゆる疑念を払いのけて明白に(疑いの余地なく明らかに)なったが、三大国は永遠のボス犬(top-dogs)になろうとしている。もちろん、かれらは

サンフランシスコ会議(United Nations Conference on International Organization)とは、1945年4月25日から6月26日にかけて、アメリカ合衆国サンフランシスコで開かれた連合国会議。正式には「国際機構に関する連合国会議」。

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準備万端、自由と民主主義のお為ごかしを言い、ユーモアたっぷりに「負け犬」のふりをしながら、巧妙に「自治政府」と「独立」を分ける線を引く。イタリア、ドイツ、日本のファシスト政府が屈服したのは事実だ。しかし、ファシズムの精神はかつてないほどの勝利を収めたようだ。「勝利は」、ラスキ教授は指摘しているが、「それ自体は単なる時の運であって、それでなにかが達成されるわけではない。」「勝利は民主主義にとって新たなチャンスである。ただし、勝利それ自体が、そのチャンスをものにできると保証するわけではない。」*1 いまやほぼ確実だが、チャンスはまた失われた。「西側世界に民主主義は存在しない」、バーナード・ショウの指摘では、「はびこっているのは金権政治、みんな爪の先までファシストだ。」これらの指摘は、ほぼおなじ強度で現在のイギリス労働党政権にあてはまる。なぜなら帝国主義と民主主義は両立しえないからだ。違うのは、チャーチル主義ファシズムのいた場所に、いまは「労働党の独裁」が居座っているというだけである。米国はより若く賢明だから、「可視化された帝国」などにはこだわらない。しかし、かれらの見えない帝国は確実にその触手を伸ばしていて、その名前が「4つの自由」である。ソ連はこうしたやからの中ではもっとも抜け目がなく、巨人のようにのし歩き、世界を「社会主義にとって安全」にしようとしている。このように第二次世界大戦後ですら、民主主義への見通しは暗くきびしい。そして、もしも国際連合が数年後、国際不連合になる方を択んだとしたら、世界を襲う運命は、完全な破壊にちがいない。「デイリー・ヘラルド」紙、このイギリスの政権党である労働党の影響力ある一機関があからさまに警告しているのは、「世界は目を見開いたまま次の戦争へと進んでいる。」「このまま行けば」、同紙いわく、「われわれは早晩ヒトラーを悼むことになろう。同盟国を統一できるのはかれだけだったのに、と。」

1 ‘Reflection on the Revolution of our Time,’ p.149.

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資本主義的民主主義

 西側民主主義における危機の原因を探るのは、そう難しいことではない。トーニー教授の用語を借りれば、げんざいの「獲得社会」が根となって、われわれの経済と政治に不調が生じている。資本主義は自由で礼儀正しく温厚でありうる、ただしそのポケットに触れないかぎり。資本主義は大衆に社会改革や政治的自由を提供するが、そこには暗黙の了解事項があって、政治権力を資本主義システムの根幹に刃を向けることに用いてはならない決まりである。存在がいったん危機に曝されるや否や、資本主義はただちにヴェルヴェットの手袋で覆った鉄拳を突き出す。特権階級がその笛吹きたちに金を払うのは、指図通りの曲を吹いているかぎりのことだ。しかし、過去の栄光と現在の奢侈を護るためなら、ライオンなみの暴力部隊を雇うこともためらわない。だとするとファシズムとは、いったいなんだったのか?ラスキ教授の定義では、ファシズムとは「お蔵入りの過去を暴力で保護し、それで未来をも拘束しようとする、特権的軍隊に捧げられる墓碑銘」*1 である。ことばを変えると、ファシズムとは資本主義的民主主義が窮地で牙をむいた姿なのである。じっさいのところ、資本主義と民主主義は本質的に矛盾するものだ。資本主義社会において、生産を動機づけるのは生産手段を所有する者の利益である。いっぽう民主制において、市民はその政治権力を行使して行政を動かし、自由にできる物質的豊かさを増進しようとする。

1 ‘Where Do We go From Here?’

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 経済的寡頭制と政治的民主主義の統一がうまく働くのは、資本主義が成長局面にあるときだけだ。ところが、戦争の後には収縮期が始まるものだ。その結果、失業がひろがり「豊富さの中の貧困」という奇妙な現象が起こる。大衆は政治権力を行使して物質的豊かさを取り戻そうとする。これは所有者階級の経済的特権への直撃だ。かくしてファシズム独裁と全体主義は誕生する。イギリスやアメリカのいわゆる民主主義も、本質的にはファシズムである。イギリスとドイツのちがいは、程度の差であって質の問題ではない。社会主義者の脅威がより大きいために、イタリアやドイツでファシズムはより攻撃的で独裁的になっただけのことである。
 「民主主義」のもとでは、資本主義は深刻な脅威に直面しないので、比較的穏健かつ寛容でいることができる。しかし、真の民主主義は分断−−プラトンの用語でいえば「富者のポリス」と「貧者のポリス」への−−をかかえた社会では不可能である。「国家は、経済階級によって分断された社会からなるかぎり、つねに生産手段を所有する階級に召使いとして奉仕する。」*1 だから、げんざいの社会の性格における根本的な変化は、経済条件が変わらないかぎりけっして起こることはない。起きなければ、民主主義は資本主義のお手盛りになるであろう。金持ち階級は、直接にせよ間接的にせよ政治体制や新聞、出版、教育機関その他のプロパガンダ装置を管理する。

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それは民主主義の目的じたいを食い荒らし、しまいには金権政治にまでおとしめる。ブライス卿が述べるとおり、「民主主義の執拗で陰険な敵として、金の力以上のものはない。」この敵が恐ろしいのは、「説得と策略によってこっそりと力をおよぼすので、実力によるよりも、知らないうちに人びとを引っぱって行く」からだ。在りし日の「懐中選挙区」1) から現代の「ロビー活動」「選挙区対策」にいたるまで、「資本主義的民主主義」にまつわる害悪の物語は、どれも瓜二つである。

民主主義対「群主主義」

 現代の民主主義において、金のもつ不健康な力はさておくとしても、その選挙システムには大きな欠陥があり、また望ましいものとはいえない。大選挙区があることで、有権者と選挙民が直接かつ親密に接することはまず不可能になる。ここから必然的に出てくるのは「選挙キャンペーン」、みんなが知りすぎるほど知っている害悪である。バーナード・ショウが、その無類の筆致で描く選挙集会のさまは、「いかがわしく醜悪な見せ物であり、正気で素面の連中が分別なく絶叫するようすは、冷静な第三者の目には、精神病院で例外的にひどい精神錯乱を見ているに違いないと思われるほどだ。」「年をとるにしたがい」、ショウは続ける、「ますます感じることだが、こういう見せ物が国民の政府のまじめな活動の一環であるということ自体まったく我慢のならないことであり、

1) 腐敗選挙区と同様に、民主的とはいえない選挙区を指す用語として、懐中選挙区(pocket borough)がある。これは、小さな選挙区において、ひとりの有力な大地主が、あたかも自分のポケットの中にあるように、その選挙区を自在に支配している状態を意味している。

1 ‘The State in Theory and Practice,’ by Prof. Laski, p.328.

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人間性と市民の品位にとって恥である。」*1 そういうわけで、大きすぎる選挙区に正しい代表が選ばれる保証はない。ガンディー翁が指摘するとおり、「民主主義」のかわりにわれわれが目の当たりにするのは「群主主義(Mobocracy)」である。上品かつ有能で落ちついた人はそうした選挙に寄りつかず、無節操で「面の皮の厚い」候補者たちが、ワイロや買収という手軽な武器で勝利をものにする。選挙に要する法外な費用はとうぜん、民主主義を資本主義者が牛耳る道具へと変えていく。
 その上、選挙区が広大ないまのシステムでは、選挙はあまりにも機械的で活気に乏しいものとなる。選挙民は、候補者についてなんら直接知っているわけではなく、また候補者を選ぶのも硬直した政党の組織か「幹部会」である。立法や行政があまりにも中央集権化されているために、選挙が地域の利害を反映することはほとんどない。選挙民の無関心は、そういうわけであらゆる民主主義国においてことわざのネタとなっている。選挙となると、選挙民を「投票所」へとむりやり引っぱって行かねばならない。米国のような進歩的な国でさえ、選挙権を与えられた人口のうち、その特権をじっさいに行使するものは、平均すれば半数に満たない。このシステムは挙げた「手」を数えるだけで「頭脳」を考慮することはなく、投票を計算するだけでその価値の重さを量ることもないから、知識人が大して熱狂しないのも当然なのだ。

政治的「幹部会」

 念入りに組織された政党が占めるところに、独立した思想や活動の余地はほとんどない。

1 ‘The Political Mad-House in America and Nearer Home,’ pp.25-26.

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候補者としての資質は最高であっても、「政党ボス」のお気に入りにならないかぎり、選挙に立てる見込みはない。政党公認の候補者でさえ、議会での絶え間ない「むち打ち」に晒される。わたしは、現代の政党システムにはなんの利点もないと言いたいのではない。選挙民を、特定の国家の重要課題について教育するには極めて有効だ。しかし、現代の政党が融通のきかない硬直した組織になっていることは認めねばならない。A. R.ロードいわく、「政党システムは、大衆の意志を正確に代表するように意見を分類する方法としては、あまりにも機械的であるように思われる。」*1 「いまの選挙のやり方は」、H.G.ウェルズは書いているが、「代議制政府のたんなる戯画にすぎない。」「それが生産したのは、大西洋両岸にわたる巨大で愚劣で堕落した政党マシーンであった。」*2 議会における議論はまったく現実味のないものになっており、あらゆる重要な弁論の結果は、あらかじめ政権党が用意した通りのものがほとんどだ。いわゆる代議制議会は、かくして「おしゃべり屋」として公衆の軽蔑の的になるまでに失墜した。

中央集権化

 戦争に憑かれた世界において、外国からの侵略の脅威が生んだのは、政治権力の中央集権化であった。この議会事務の行きすぎた中央集権化は、民主主義をただの蜃気楼か、金のかかる見せ物におとしめた。議会に業務が集中しすぎている。こうした集中は効率を落とし、あるいは甚だしい遅れや時間と労力の浪費につながる。

1 Arthur Ritchie Lord ‘Principles of Politics,’ p.162
2 ‘The New World Order,’ p.123.

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また、民主主義の基礎の基礎である原理、「みんなに関係することはみんなで決めよ。」は無に帰する。
 これらはつまり、現代の民主主義が患っている病弊なのである。ほかにも多くの欠陥を数え上げることはできる。しかし、それは本書の目的には関係ない。ただ民主主義が岐路に立っていることを言えばじゅうぶんである。それは生き延びるにちがいない。しかし、どちらの道を行くべきなのか?