アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(1)

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IV
ガンディー主義の道

 民主主義が危機を乗り切るためのさまざまな道すじを、現代の思想家たちは提案してきた。ラムゼイ・マウルは「民主主義は失敗したか?」のなかで、単記移譲式投票 1) による比例代表選挙を提唱している。この方式によれば、少数派が多数議席を獲得することはまず不可能になり、国会の議席配分が国内世論の比率を反映するからだ。比例代表選挙はまた、政党幹部会の存立への一撃となることも期待される。それは国内のもっとも才能あるものが選挙される、じゅうぶんな機会をつくり出すからだ。マウルは加えて、「委員会方式」を国会への激しい業務集中を緩和する方法として提案している。なるほど、かれの提案はとても実際的だが、まだ問題の縁に手をかけているにすぎない。比例代表選挙はよい。しかし、それだけでは不十分だ。委員会方式もまた、立法と行政の中央集権化が必然的にはらむ難題の解決にはならない。ブライス卿は民主主義への希望を「道徳と知性の人類全体における進展」につないでいる。「知性と共感、義務への意識があれば、なにごとも円滑に進む」*1 しかし、そんな見通しの立たない希望では、現代の民主主義をむしばむあらゆる病弊の治療など、うまく行くはずがない。

1 ‘Modern Democracies,’ p.666.

1) 単記移譲式投票 (Single transferable vote (STV) ) は、死票を最小化し、比例代表を提供するよう設計された優先順位投票制度であり、比例名簿式よりも票が候補者に対して明確になることを保証している。この選挙方式は、大選挙区制を用い、別の方式では無駄になる票を移譲することによって達成される。単記移譲式では、最初に個々の票を最も好まれた候補に配分し、候補者の当落の後、有権者の表明した選好順位によって、不必要な票もしくは使用しない票を移譲する。

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この混迷した問題に対処するためには、なにか建設的で具体的な策が必要だ。ラスキ教授の予想では、潜在的な豊富のさなかの貧困という逆説に終止符を打つ「既得権の社会化」が、健全で安定した民主主義をつくり出す。しかし、社会主義で十分だろうか?われわれはすでに、ソヴィエト印の社会化された民主主義が、全体主義と大衆統制に終わるのを見てきたではないか。スタッフォード・クリップス卿は「全体主義的統治や計画経済の効率性と、民主主義のみが提供しうる文化的・政治的自由のすべてが結合して、ひとつの複合体を構成する政府の形態を考案すること」*1 が必要だと強調する。しかしこれも、漠然とした提案にすぎない。エドヴァルド・ベネシュ・チェコスロヴァキア大統領は、成功する民主主義のリーダーに求められる資質を、長いリストにあらわした。「かれが人格として兼ね備えなければならないのは、調和し総合された高貴な人間としての、するどい直感と感覚に裏付けられ知性あふれる文化や科学への博識、精神、すばやい決断と速やかな行動、肉体的・道徳的な勇気である。」*2 しかし、そんな有能なリーダーがどこで見つかるというのだろう?
 例によって、バーナード・ショーは独自の提案を行なっている。かれの意見では、大人に選挙権を与えることが民主主義を死に追いやるのだ。「わたしは学生で、生物学の一分野である人間性を研究している。」、ショーは最近の‘Time and Tide‘誌に書いている。「人民の声が神の声で、政治的な能力と賢明さが21歳以上のすべての肉体に備わり、全能かつ無謬、そんな世界はわたしに言わせればおとぎの国で、存在したこともなければ未来のご託宣にもならない。」

1 ‘Democracy Up-to-date’ p.107.
2 ‘Democracy: Today and Tomorrow’ p.212.

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そういうわけでショーの提案は、「テストによって選ばれた有能な人びとからなり、世論のもっとも厳しい批判にしたがい、定期的に任免される参事会によるのが、もっとも安全策である。」かれに従えば、民主制のなすべきことは、生まれつきの超人的立法者を探知して、立法者が選ばれるべき候補者団にかれなりかの女を加える、そのためのテストを見いだすことになる。つまりショーは、「全体主義的民主主義」とでも呼べそうなものの信奉者なのだ。この「超人的劇作家」に正当な敬意を表しつつも問うべきは、しかしどんな人間に超人を選ぶテストを処方できるのだろうか?また、超人的立法者がこの役柄をやってのけるには「救世主」か「半神半人」のようなポーズをとらねばならないのは明白だ。この最後の分析からすると、ショーの「全体主義的民主主義」はまったくの全体主義であって少しも民主主義ではないことになる。
 ならば、民主主義はどの道を行くべきなのか?わたしの答えは「ガンジー主義の道を行け」だ。これは二つの基本原理を含んでいる。非暴力と地方分散化だ。つぎにこれらの原則について、やや詳しく説明しよう。

非暴力

 マハトマ・ガンディーによれば、民主主義を救いうるのは非暴力だけだ。なぜなら、「民主主義は暴力に支えられているかぎり、弱者に保護をあたえないから」。「わたしの考える民主主義とは、その下ではもっとも弱いものも、もっとも強いものと同等の機会をもつことだ。

1 ‘Everybody’s Political What’s What?’ by G.B. Shaw p.341.

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それは暴力を通してはけっして起こらない。」*1 「こんにち西洋で機能している民主主義は」、ガンディーは続ける。「薄められたナチズムあるいはファシズムであり、」「せいぜい帝国主義の、ナチズムあるいはファシズム的傾向を覆い隠すヴェールにすぎない。」くり返しになるが「民主主義と暴力は手をつないで邪悪な道を進みうる。」「こんにちの国家は、建前上民主主義でも本音では全体主義にならざるをえない。そうではなく民主主義へ向かうべきだというなら、勇気をもって非暴力的へ向かうしかない。」*2 さもなければ、立憲民主政など遠い夢のままだろう。資本主義社会は人間の形をした搾取であり、あらゆる搾取の本質は暴力である。だから搾取を根絶するには、非暴力の社会あるいは国家を確立しなければならない。そうした社会は、必然的に経済的な自由と平等に基づかねばならない。なぜなら、経済的平等なしにほんとうの政治的民主主義など不可能だからだ。
 この経済的自由・平等をどうやってつくるのだろうか?ひとつの道はソヴィエト共産主義で、実際には「プロレタリア独裁」、あるいは暴力的で無慈悲な「地主」階級の抑圧を意味する。プロレタリアの生活さえも厳しく統制され、そのため自由と民主主義は多かれ少なかれ無に帰する。ことばを変えれば、治療が病気そのものよりも有害になる。ボリス・ブルツクスがみるとおり、「個性を完全に呑み込んでしまうホッブズの怪物(リヴァイアサン)の代表例は、かつての西欧君主制国家でも今日の民主主義国家でもない。

1 ‘Harijan’ 18-5-1940.
2 同上 12-11-1938.

B o r i s B r u t z k u s ( O c t o b e r 1 5 / O c t o b e r 3 ( R u s s i a n i n f o r m a t i o n ) , 1 8 7 4 , P o l a n g e n / P a l a n g a , d i s t r i c t ( C o u r l a n d G o v e r n o r a t e , R u s s i a - D e c e m b e r 6 / D e c e m b e r 7 ( s a m e w i t h b i r t h d a t e ) , 1 9 3 8 , J e r u s a l e m / B e r l i n ) w a s a R u s s i a n e c o n o m i s t .
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それは社会主義国家だ。」*1 マックス・イーストマンは、かつては熱心なソ連信奉者だったが、のちに幻滅を味わった。「いま考えるに、高度に組織化された少数政党が武力によって権力を掌握するのは、その名としてプロレタリア独裁だろうと栄光のローマだろうと、北欧人の優越その他どんなスローガンを発明しようと、またそれが大衆とどんなにうまく統合されていようと、通常は全体主義へと向かうであろう。」*2 そして全体主義国家とは、最新技術を駆使した暴政への当世風のよび名にすぎない。そうした暴政は、たとえ名目が戦争マシーンの効率化であろうと、必然的に自由で自然な人格の発展を窒息させる。ジョン・スチュアート・ミルが述べるように、忘れてならないのは、長い目で見ると「価値ある国家とは、それを構成する価値ある個人たちのことだ。」「人びとを萎縮させる国家は、たとえかれらが手の中の従順な道具として、有益な目的のためにはたらくとしても、小人たちに大した成果は上げられないことを悟るであろう。」*3 このように、民主主義の進化には、非暴力の路線を行くことこそがもっとも必要である。

1 ‘Economic Planning in Soviet Russia,’ p.76.
2 ‘Stalin’s Russia and the Crisis in Socialism’ p.12.
3 ‘On Library’ (Thinkers Library), p.143.