アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(2)

地域分散

 では、なにが非暴力的な民主主義のための手段なのだろうか。それは地域分散だ。暴力は、必然的に中央集権に通じる。非暴力の神髄は、分散化にある。ガンディー翁がたえず提唱してきたのは、そうした分散化を経済力と政治権力に関して、多かれ少なかれ自給的で自治的なむら共同体で実現することであった。

1 ‘Economic Planning in Soviet Russia,’ p.76.
2 ‘Stalin’s Russia and the Crisis in Socialism’ p.12.
3 ‘On Library’ (Thinkers Library), p.143.

(p.39)
かれは、そうした共同体こそが非暴力組織のモデルだと考えた。もっとも翁の意図は、古代インドの村落共和制をいにしえの形そのままによみがえらせることでは、もちろんない。それは不可能であり、望ましくもない。現代の状況変化にかんがみて、必要な変化は加えなければならない。それどころか、かつての村共同体は、あらゆる種類の欠陥から自由ではあり得なかった。にもかかわらず認めるべきなのだが、こうしたむら共同体は、地域分散化した経済と地方自治のもとで、政治経済を最大限に組織するための理想を胚胎している。だからガンジー翁ははっきりした信念として、未来のインド憲法は、積極的で直接的な民主制、農家単位の経済、ひとびとのふれ合いをもつ村々を綿密に織り合わせ、調整した組織を基礎とすることが不可欠だと考えていた。「最良の国家は」、ガンジー翁は断言する、「もっとも少なく統治された国家だ。」*1
 政治権力の移譲と地域分散を喫緊に求めるのは、べつにガンジー主義者だけが罹る「熱病」ではない。西洋の進歩的政治思想家のほとんどが認めるところで、政治的多元主義者であろうと、ギルド社会主義者、サンディカリストアナーキストであろうと、細かい点こそ違え、機能しうる基礎の上で民主主義の権限委譲を要求している点ではひとつだ。かれらはみな、高度に中央集権化された統治には、経済にせよ政治にせよ反対である。「もし人間の社会活動に信義をよみがえらせようとするならば」、ジョアド教授の意見では、

1 ‘Harijan’ 18-5-1940.

(p.40)
「国家を切り分け、その機能を分散しなければならない。」「個人が、生産と地方政治の両面において、執行権力をもつさまざまな小集団に所属できるようにしなければならない。そのメンバーとなることによって、かれはじぶんが政治的に価値ある人間なのだとふたたび感じることができる。かれの意志はいまや重要性を帯び、かれはほんとうに社会のためにはたらくであろう・・・。ゆえに、政府の行政マシーンは規模を縮小すべきということになる。地域化して、より扱いやすくすべきだ。そこで人びとは、政治への労苦の具体的な結果を目の当たりにし、ほんとうの自治が行なわれるところでは社会は自分たち自身のものとなり、かれらの意志に合わせて形づくられうることを理解して行く。」「民主主義とは」、コール教授は書いている、「中央集権の敵である。なぜなら民主主義の精神は、集合的な意思表示が必要とされるところではつねに、表現の自由が即座にその場で保証されることを求めるからだ。」「(意思決定の)運河を張り巡らすのに、すべての流れを一つの中央水路に落とし込んでしまうと、自発性は破壊され、(決定は)非現実的なものとなる。」*2 「フェビアン社会主義」でコール教授はさらに展開する。「一般男女の間に、集団的活動への能力と公的ことがらへの理解を広く普及させたいのであれば、労働者の小規模な民主制の上に社会を築くべきである・・・。」オルダス・ハクスリー教授によると、「よりよい社会への政治的な道は、地域分散と権限ある自治という道である。」権力の中央集中の結果は、個人の自由が削られ大衆統制が進むことであり、それは従来、民主政体を謳歌してきた国々でも起こる。

1 ‘Modern Political Theory,’ pp.120-121.
2 ‘A Guide to Modern Politics,’ p.532.
3 ‘Ends and Means,’ p.63.

(p.41)
忘れがちなことだが、民主主義は人間のために作られたのであって、人間が民主主義のために作られたのではない。民主主義は目的に到達するための手段にすぎず、人類の社会的あるいは心理的なつごうに適合させ修正すべきものである。現代社会学が支持する原理では、「人間は小さい共同体で生きているとき、最も幸福である。」*1 この「人間的要素(ヒューマン・ファクター)」を無視したり、ロイ・グレンデイが指摘する調和した小集団を創出することなしには、新世界建設へのどんな壮大な計画も、コケる運命にある。「集団との絆を持たない人間は、殻のない牡蛎のようなものだ。」とカール・マンハイムは指摘する。ギンズバーグ教授の台詞を用いると、「同類意識(consciousness of kind)」こそが、個の群れに仲間としての結びつきをもたらすのだ。そうした感情と忠誠心による絆は、真の民主主義がはたらくために不可欠であり、どうじに現代の中央集権化された民主主義では失われている。そのことこそ、アダムス教授が現代代議制政府の欠陥を分析した後に、「問題の根幹をたずね、権力委譲と地域分散化の骨太な政策を推し進めること」を求める理由である。ラスキ教授が地域分散を好むのは、「中央集権化は画一性をもたらす。そこには臨機応変の能力が欠けている」ためである。著名な社会学者のルイス・マムフォードが勧めるのは、「小さく均整(バランス)の取れた共同体を、自由な土地(国)に」建設することである。


1 ‘The future of Economic Society’ by Roy Glenday, p.251.
2 ‘The Modern State’ p.235.
3 ‘An Introduction to Politics,’ p.53.

(p.42)
こうした小共同体は、ひじょうに大きな地方自治の裁量を味わうことができ、真実で活力ある民主主義の適切な練習場となる。またお役所意識への解毒剤となり、地域の問題に関する、じゅうぶんな情報に基づく議論と適切な解決をうながす。「小さい共同体でこそ」、ブライス卿の主張では、「さいしょに民主主義が現れ、その最初の予言者や使徒たちによって理論づけられた。小共同体でこそ、人びとのほんとうの意志を政府の仕事へ反映させるにはどうやったらよいか、もっともよく学ぶことができる。なぜなら、人びとが前にする問題のほとんどは、もともとかれら自身の知識の中にあったものだからだ。」*1 村や地区(commune)における地方自治の長所を、ベニ・プラサード博士はこう説明している。
「完全な自治の単位がもたらすのは、アリストテレスふうにいえば『人びとが他者の人格を理解することができる』ために好ましい環境である。村やまち(township)、地区における自治は、直接民主主義の長所をくりかえし生産する。それは市民の愛郷心を喚起し、個人をより高貴なものにし、協同の習慣を助長し、裁判の訓練となり、統治する経験を、代表制の議会や行政には遠すぎて参加のおぼつかない、数百万の人びとが分かち合うことである。町(town)や地区での地方自治は、中央の議会や執行機関の負担を軽くする。現代世界の諸大国では、個人が票田の中に埋没してしまうのを防ぐ、ひじょうに大きな利点をもつ。

1 ‘Modern Democracies’ p.489.

(p.43)
この埋没が惹き起すのは一種の畏れ、ひとが生命なき世界を動かす壮大かつ永遠の力について思いをめぐらす時に生じる、個人の無能力への自覚である。そのけっか群衆に生じる運命論をもっともよく矯正するものこそ、地方自治なのである。

1 ‘The Democratic Process,’ pp.249-50.