アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(6)

地域分散化の哲学

 はっきり理解されるべきことだが、ガンディー翁が地域分散化を提唱するのは、たんなる経済的・政治的な利点からではない。翁にとって地域分散化は、「簡素な生活と高邁な思想」という文化と精神の理想を具現し、支えるものであった。「こころは休むことを知らない鳥だ」と翁はいう。「持てばもつほど欲しがり、しかも満ち足りることがない・・・情欲は、それに溺れれば溺れるほど抑えがきかなくなる。だから祖先たちは耽溺への戒めを設けたのだ。かれらは、幸福は多く心の状態によることを知っていた。そしてほんとうの幸福と健康が、手足を適切に働かすところにあることが分かっていた。」*1 ガンディー翁はこうして、簡素さを文化と道徳の必要条件と見なした。著名な科学者であるアインシュタイン教授も、おなじ考えを支持している;

「所有、外面的成功、名声、贅沢−−これらは、私にはつねに軽蔑すべきものでしかなかった。私の信念では、簡素かつ謙虚な生き方こそ万人にとって最良であり、

1 ‘Hind Swaraj,’ pp. 87-88.
1) Agarwal,‘The Gandhian plan of economic development for India,’ Padma Publications Ltd, 1944.
(p.57)
からだとこころの両面にとって最良のものだ。」*1
 しかしながら、簡素とは自ら貧しさに甘んじ、「ふんどし一丁」でいることを必ずしも意味しない。ガンディー翁のかかげる必需品とか最低限の安楽の水準は、きわめて高いのだ。しかし、翁のいう「よい生活」の中に、贅沢の入り込む余地はない。かれが心から望むのは、たんなる「生活水準」を引き上げることではなく、「生の水準」を向上させることだ。
 簡素さの理想に身を置くことは、生の「金銭的[metallic]価値」の反対である「人間としての価値」を尊重することでもある。ガンディー翁にとって、「人間とはもっとも尊重されるべきもの」だ。あるいはプロタゴラスが語るように、「(人間とは)万物の尺度」なのである。「貨幣経済」の代わりに、翁は「生の経済」を提唱する。社会や経済を再構築するさい、このように人間的側面を強調することが、カーディ(手作りの布)運動や村営産業運動の思想的背景をなしている。「カーディの精神は、地球上すべての人類の連帯感をあらわしている。」*2 古代インドのむら共同体は、その協同の精神によって、おなじ道徳を体現している。現代の「経済人」にとって、黄金以外に神は存在しない。しかしガンディー翁は、たとえ全世界を得るとしても、魂と引きかえにすべきではないと考えたのだ。
 肉体労働の神聖さは、地域分散化にかんするガンディー主義哲学の根底をなす、もうひとつの概念である。「最大の悲劇のひとつは、何百万もの人びとが、手を手として使うことをやめてしまったことだ。」*3 「われわれが破壊しつつあるのは最上の生ける機械、すなわちわれわれの身体だ。それを錆つくままに放ったらかし、生活を身体にとってはより機械的でないものに

1 ‘I Believe,’ p.70.
2 ‘Young India,’ 17-2-1927.
3 ‘Young India,’ 22-9-1927.
(p.58)
取り替えようとしている。」*1 ガンディー翁からみれば、労働とは人生そのものであり、祝福であって呪いではないのだ。
 もう少し考えを進めると、これらの理想、上で分析したような簡素さや労働の人間的価値そして神聖さは、ガンディー主義の根本である非暴力思想の上に築かれたものであることが分かる。「非暴力を基調とした生活を心に描いてみると、」翁はいう、「それは高邁な思想を表わす、もっとも単純な言葉に還元されるほかないことがわかる。」「非暴力にもとづく社会が可能なのは、人びとの集団が村に定住し、尊厳ある平和な共存の条件である、自発的な協同が行なわれるときだ・・・非暴力にもとづく文明にいちばん近づいたのは、いにしえのインドにおける村落共和制である。わたしも、それが粗雑だったことはみとめる。その中に、わたしが定義し構想するような非暴力がなかったことも知っている。しかし、たしかに萌芽はあったのだ。」*2 ガンディー翁はその帰結として、「村落主義」の上に文明を築くことを情熱的にうったえている。「私の構想する農村経済は、あらゆる搾取から自由であろうとする。そして、搾取は暴力の本質である。」*3
 偉大なるガンディーにしたがえば、非暴力こそ「世界最強のちから」なのである。これは生における至高の法則だ。「あらゆる社会を結合しているのは、非暴力のちからである。それはあたかも、重力が地球をその場所に保持しているのと同じことだ。」あるいはT.H.グリーンが述べるように、「力ではなく意志こそが、国家の基礎をなす。」*5 暴力が究極的に無益であることは二度の世界大戦によって決定的に示された。そしてトルーマン大統領がさいきん述べたとおり、文明が次の世界大戦を生きのびることはありえない。

1 ‘Young India,’ 8-1-1925.
2 Harijan, 13-1-1940.
3 Harijan, 4-11-39.
4 同上, 11-2-39.
5 Thomas Hill Green, ‘Principles of Political Obligation.’
(p.59)
自然科学の発展が、このことを確証している。現代世界が迫られている選択とは、暴力か非暴力か、ではなく、暴力かそれとも科学か、なのだ。われわれに科学と暴力の両方を択ぶ余地はない。原子爆弾は、この主張の鮮やかな証明であり、科学と暴力の結婚がもたらす論理的帰結なのである。しかも、もっぱらのうわさではアメリカは新しい爆弾を発明し、その前ではいまの原爆も花火同様にすぎないというではないか。だから文明と人間性の名において、完全に暴力を断念すること以外の選択は残されていないのだ。原子爆弾によって世界を無に帰そうとする代わりに、われわれは最小の原子の中にさえ、全宇宙を感得することを学ばねばならない。そうした洞察なしには、世界は必ずや破滅するであろう。