アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(7)

社会学的側面

 地域分散した村落共同体主義は、社会学の立場からも推奨すべきものである。「野外での農的暮らし」が現代の過密都市に取って代われば、それは国民に健康や衛生の向上をもたらすだろう。あわただしくやかましい都会の暮らしは、ゆっくりとだが確実にわれわれの神経に作用し、非常に大きな緊張を身体と精神の両方に強いる。村落共同体での平和な生活は農場や農家の工場・工房での健康的な労働からなっており、ともすれば退屈で機械的になりがちな社会生活に喜びと活力をあたえる。
 国民の健康への配慮を別にしても、「農村へ帰ろう運動」は人類が生物として生き残るためにも必要である。
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ここ2、30年の間、いくつかの西側工業国で一貫した人口の減少がみられた。マルサスは過剰人口という妖怪に悩まされたけれども、現代の生物学者たちを悩ませる将来予想は、人口減少と人類の種としての質的退化である。都市人口が繁殖力において農村地域のそれよりはるかに劣ることは、社会学の確立した原則である。ランスロット・ホグベン教授が指摘するように、少産の原因は都市の過密であり、親業にいそしむ満足と競合する他の気晴らしであり、家族集団の安定性に新しい社会関係の様式が加える衝撃である。行きすぎた機械化は、生活そのものをも機械化する傾向がある。「都市では」ホグベン教授はいう、「生殖は、機械化された人間の整然とした反復業務に対する、医療行為の不法侵入と化している。」「機械は天地創造もしなければ子もつくらないが、人間関係の様式を決定している。」*1 ぎゃくに農村の環境では、子どもたちは動物や植物たちの出生のくり返しにふれあいながら育つが、その中で生命が己を更新する過程を自然なできごととして受け入れていく。都市生活は資本主義社会に特有のものではない。社会主義国家も、「人類存続」のための計画という責務に直面しているのだ。
 村落共同体主義は、社会の調和や社会保障にも貢献する。むかしの村落共同体は、それじしんを大きく拡張された家族とみなしていた。だから個人の不幸は、村全体の不幸でもあった。もし、だれかが盗みに遭えば、残る共同体がその損失を埋め合わせた。もし村びとの家屋が不運にも火事で焼け落ちれば、村人たちは建材を融通し合って家を建て直すであろう。もし一家の長がとつぜん亡くなったら、共同体ぜんたいで遺児の面倒をみ、援助するであろう。一家族の結婚や死は、むら共通の関心事とみなされた。共同体の中で労働や職業を分担することは、自動的に失業保険にもなっていた。たしかに、ささいな妬みや競争、確執の類いがまるでなかったとはいえない。しかし、墓場みたいに平和でなければ村落共同体が調和を見ていない、ということではあるまい。