アガルワール:自由なインドのためのガンディー主義憲法 第4章(12)

国際主義対普遍主義

 人びとは、国際主義についてもっともらしく語るいっぽうでガンディー翁の「村落主義」をあざ笑う。しかし翁が国際主義のはるか先を見通していたことを、いままで理解したものがあっただろうか?かれが求めるのは国際主義だけではない、普遍主義も、だ。翁はうったえる、われわれは仲間や村、郡、国、世界の一員だと感じるだけでなく、無限の宇宙とも調和しなければならない、と。しかし、この普遍主義の理想を実践し実現するのに、天と地の両極端をひっきりなしに行き来する必要はない。宇宙の一員であることは、小さな農家の静かな生活の中でも感得できるものだ。国際主義とか普遍主義とは、心のありようのことであって、時空を創造することではない。村落主義と普遍主義とを、同時に行なうことも可能だ。ガンディー翁にしたがえば、われわれの物質生活の基盤は村にあるべきだが、文化や精神のすみかは宇宙ぜんたいでなければならない。これこそ、かれのスワデシ(自給)思想の精髄なのである。翁の希いは、人間性や宇宙へ奉仕すること、しかもお隣さんや国家を通して直接することだ。「わたしの愛郷心は」、翁はいう、「排他的でもあり包含的でもある。」「排他的というのは、どう転んでもその関心の向く先が故郷にかぎられるという意味だ。しかし、わたしの奉仕は競合や対立を生む性質のものではなく、その意味では包含的だ。
(p.71)
わたしは、すべての生きとし生けるものと一つでありたいのだ。」*1

新しい文明

 真実は、ガンディー主義の道とは中世風の生活ではなく、新しい文明であることにつきる。さまざまな万能薬が現代文明の病の治療法として喧伝されてきたが、それらはみな一様に、根本では強制と暴力に重点を置いている。「パルチザンたちは、現代世界を手に入れようとさまざまな色のシャツを着て相争っているけれども」、ウォルター・リップマンは書いている、「かれらはみな、その武器を同じ兵器庫から引っぱり出し、その教義は同じ主題に基づく変奏曲で、歌詞をちょっとだけ変えて同じ曲を唱いながら戦場へと前進して行く。」「かれらの武器は、人間の生活と労働を強制的に方向づけることだ。その教義は、より強制力のある組織だけが無秩序や惨めさに打ち勝つ、というものだ。かれらの約束とは、つまり『国家権力を通せば幸福が実現されます』である。」このように国家による強制に重きを置くのが、現代はやりのドグマである。この流れはたいへん強く、権威主義者か集産主義者でないものはだれでも、「超保守主義者、反動主義者か、良くてせいぜい、流れに逆らって絶望の泳ぎを試みる愛すべき変わり者」にされてしまう。ただ偉大なるガンディーだけが、非暴力と地域分散とを一貫してねばり強く、この二、三十年間説き続けてきた。かれのヴィジョンは、その簡素さと力強さ、現実性において東洋的である。ラダカーマル・ムカルジー博士はいう、

1 ‘Wisdom of Gandhi,’ by Roy Walker, p.55.
2 ‘The Good Society,’ by Walter Lippmann, p.3.
(p.72)
「東洋的ヴィジョンによるわれわれの政治の未来とは、知識人の専制でも、ブルジョアの寡頭制でも、あるいはプロレタリアの独裁−−階級的特権への嫉妬を、消極的で考えもはっきりしない大衆へ流し込んだもの−−でもなく、百姓の民主主義が古くて必然的な地域・機能に基づくグループとしてはじまり、一層また一層と積み重なって地区から郡の規模へ、さらに連合して全国会議へと成長していくようなかたちだ。すなわち村の神殿や聖樹のような古来の活力をよみがえらせ、しかも活発な市民生活や社交の、新しく清々しい精神が息づいている民主主義である。」

 ガンディー翁がさいきん述べたところでは、新しい文明の概念、翁が「ラーム・ラージャ」と呼ぶものをこう説明している:

「それを宗教的に解釈すれば、地上における神の王国だといえる。政治的に解釈すれば完璧な民主主義であり、そこで不平等は、持てるものと持たざるものとの間であれ、肌の色、人種、信条、性別によるものであれ消滅する。その大地と国家は人びとのものであり、裁判はただちに行なわれ、かつ完璧で安上がりである。それゆえ信仰や言論、出版の自由がある−−なぜなら、これらはすべて道徳的な拘束による、自分じしんに対する法の支配によるから。そうした国家の基礎は真理[サティヤグラーハ?]と非暴力とであり、豊かで幸福で自足した農村と村落共同体とが、それを構成しなければならない。」

1 ‘Democracies of the East,’ pp.363-4.
2 ‘The Hindu,’ June 22, 1945.
(p.73)
 思うに、ガンディー主義思想に基づく立憲国家はユートピアではなく、現実的で長続きのする、国家間戦争のみならず国内の経済紛争への解決策である。こうした考えを妄想だの幻だのとあざ笑うものは、全面戦争の筆舌に尽くしがたいあの恐怖を、いま一度ありありと思い起こしてみるがよい。もしわれわれが本気で、あんな全面戦争をどんな状況の下でも将来くり返したくないのであれば、われわれの経済や政治組織を上から下まで解体修理する覚悟が必要なのだ。いわゆる進歩的な計画や組織はわれわれには必要ない。ウィリアム・ベヴァリッジ卿がいうとおり、もはや選択すべきはユートピアか、このおなじみの世界か、ではない。「択べるのはユートピアか、はたまた地獄かだ。」*1 われわれが択ぶべきは地獄だろうか、それとも「ガンディー主義ユートピア」だろうか?選択は一刻の猶予もなく、確信と決断をもってしなければならない。さもなければ、世界滅亡への奔流をせき止めるにはすでに手おくれ、ともなりかねまい。

1 ‘The Price of Peace,’ p.87.