文民統制考

東奥日報社説・2006/12/18
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2006/sha20061218.html
文民統制がますます重要/防衛省昇格

 防衛庁の「省」昇格関連法が十五日成立した。来年一月九日には内閣府の外局となっている防衛庁防衛省に、防衛庁長官は防衛相になる。
 自衛隊法で「付随的任務」とされてきた国連平和維持活動(PKO)、周辺事態法に基づく後方支援などの海外活動が、国土防衛と同等の「本来任務」に格上げされた。
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 防衛省に昇格することでこれまで以上に、シビリアンコントロールの重要性が増す。専守防衛の逸脱につながるようなことがあってはならない。(略)

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のような「シビリアンコントロールの徹底を」という論調の新聞社説が多かったが、なにか忘れてないか。

あたかも今までは自衛隊へのシビリアンコントロールが効いてきたかのような調子なのだが、自衛隊憲法ではなく日米安保条約に規定された米軍補助部隊なのだから、これはアメリカンコントロールと呼ぶべきだろう。

また将来、米軍のアウトソーシングが進み自衛隊もいよいよ日本軍、というときに果たしてシビリアンコントロールはうまく行くのか。歴史をみるとかなり悲観的になる。

まず、鎌倉(承久の乱)〜江戸時代の約650年は、幕府すなわち軍事政権の時代だった。中国のような、武官を文官よりはるか下に見る思考習慣は根付くことはなかった。儒学を普及させるなどそれなりに努力した江戸幕府も、けっきょく文民政府への転換が不完全だった故に傾いたのだともいえる。

ところが、その次に誕生したのはやはり維新=軍事クーデターによってできた明治政府という軍事政権で、文民政府を志向した人びとはつぎつぎと粛清(いい例が江藤新平伊藤博文も謀殺説あり)され、けっきょく陸軍の親玉・山県有朋がねじ込んだ軍部大臣現役武官制によってシビリアンコントロールは骨抜きにされた。

大正〜昭和初期に上手く行きかけた(ただし15年もない)ように見えるのは、その時期が軍部と天皇の、世代と権力の空白だったからに過ぎない。で、軍隊が満州国を作ったりさんざん勝手にやったあげく、敗戦後はアメリカンコントロールに移行、現在に至る。

というわけで、ここ800年ほど(つまり都市と商業のネットワークをもつ国家になってこのかた)、日本人自身によるシビリアンコントロールは、ちゃんとできた例がないのだ。できてないことを頑張ればできるかのように言うのは、認識が足りないか欺瞞であろう。日本が、周囲の国々から「政府が軍隊を抑えられない国」と見られているのは、「ビンのフタ」論からも分かる。

あと、防衛省への昇格はNATOや米軍の、アフガニスタンイラクからの撤退と連動している、という見方もある。そうなると、自衛隊の当面の海外任務は撤退の手伝い(補給や輸送)、あるいは撤退後の(復興開発を理由とする)駐留ということにならないか。軍隊がやられる危険がいちばん大きいのは逃げている時だということ、また米英軍に護られないイラク駐留にどれほどの危険が伴うか(しかもいまや内戦状態だ)、また首相はじめ、常任理事国入りなどと比べてそうしたことをどれだけ気にかけているのか、心配でならない。