天皇家は代々仏教徒だった?泉涌寺の謎

京都東山の泉涌寺には、天智天皇昭和天皇に至る、歴代の天皇の位牌がある、ご神体じゃなく位牌が。そしてお寺の敷地内には、鎌倉時代の御堀河院から孝明天皇(明治の前。大政奉還の時に幕府の味方だったため暗殺された疑惑が晴れない)までの陵墓もある。

泉涌寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E6%B6%8C%E5%AF%BA#.E8.B5.B7.E6.BA.90.E3.81.A8.E6.AD.B4.E5.8F.B2
http://www.mitera.org/

歴史に詳しい友人によると、

本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/

位牌はそもそも儒教の祖霊崇拝のシンボルで、鎌倉時代に禅僧によって日本に持ち込まれ、日本人のセンスにもマッチしたため仏教のものと信じられ広まった由。

http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B0%CC%C7%D7/detail.html?LINK=1&kind=epedia
http://www.posteios.com/PROJ_C049.htm

ということは、671年没の天智天皇の位牌は、どう考えても(もともとあった類似のものを位牌に作り替えたにしても)死後500年以上経って作られたことになる。まあいつ作っても違法?ではないだろうが捏造すれすれだ。もっとも、中世の日本人は「夢枕の仏様」を本気で信じていたから捏造とか改ざんという意識はなかった、と考える向きもある。

ところが、天智天皇陵、つまり古墳だって立派に存在するから話がややこしい。

天智天皇
http://inoues.net/tenno/tenchitenno.html

なぜ、古墳があるのに後世にわざわざ位牌を作る二度手間をかけたのだろうか。それは、位牌が作られたであろう時代、つまり鎌倉〜幕末の間はそれこそが正統と見なされていた、つまり皇族はなによりもまず仏教徒だったからに違いない。真言立川流マニアだった後醍醐天皇が良い例である。

立川流 (密教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)
*うーむ。こればっかりは現役の中学生には話せんなあ。

また少数の例外を除き、この時代の天皇は死後「〜天皇(すめらみこと、テンノーと音読みするのは明治以降)」ではなく「〜院」と呼ばれてきたのだ。この院号は要は戒名で、仏教以外のなにものでもない。

禁裏様と呼べ!
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2005/11/post_96a0.html
院号
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%8F%B7

そもそもこの時代の「神仏習合」も、仏教を本家本元、神道をその日本人向けバージョンと考える本地垂迹説に基づいていたのだ。また、たとえばこの時代の伊勢神宮が皇室と結びつけて考えられていたかどうかも、きわめて疑問である。

伊勢神宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE#.E4.B8.AD.E4.B8.96
「朝廷の衰微に伴い皇室にとってのみの氏神から、日本全体の鎮守として武士たちから崇敬された。神仏習合の教説において神道側の最高神とされた。・・・明治維新後、明治天皇が歴代天皇で初めて自ら神宮を参拝した。以降、天皇の参拝は慣例化する。また、明治政府により国家神道の頂点の神社として位置付けられた。」

明治天皇が初めて、ということは、歴史記録が始まって以来、天皇は神社とは大して縁がなかったことにならないか。また武士の神様だったからこそ、伊勢参りも容認されたのだろう。

泉涌寺は1218年に源頼朝の家臣が再興し、1224年に皇室の祈願寺となった。これは、承久の乱の敗北によって、皇族の霊も幕府の管理下に置かれたこと、つまり「公方」は鎌倉に移ったことを物語るのではないだろうか。また禅宗は武士の宗教だったことを考えると、位牌自体が皇族の「武士ナイゼーション」の現れとも言えよう。

また、昭和天皇の位牌もちゃんと納められているのだから、現在の天皇家(というか宮内庁?)も廃仏毀釈にめげず神仏習合を守り通してきたのだ(拍手)。あんがい、こういうウナギのような一徹さ?が日本の伝統かもしれない。

(補)
「月輪大師は承久元年(1219)寺院建立のために「勧進の疏」を作って、翌二年二月(1220)第八十二代後鳥羽上皇に奉った。上皇はこの趣旨に賛同され准絹(じゅんけん=通貨の代わりになる絹)壱萬匹、上皇の御兄、守貞親王後高倉院後堀河天皇の御父)より壱萬五千匹という多額の資金を賜わったので建築にかかり、嘉禄二年(1226)ここに大伽藍が完成された。」

そうなので、上の承久の乱云々の推測は正しくないです。ただ、皇室の宗教が歴史時代を通して仏教だったことは上の記事でさらに補強されるでしょう。

これを認めると「皇室=日本固有の伝統」というイメージが害われる、と感じる人がいるから話題にならないのだろうか。