陰謀論考

「9.11はCIAの自作自演」「モサドイスラエル情報部)は9.11を知っていた」「ブッシュは開戦前、イラク大量破壊兵器がないことを知っていた」といった疑念への殺し文句は決まっている。「それは陰謀論に過ぎない」。

それは、世界的な悪の共同体など存在しない、という意味だったり、そもそも他人の行為の背後に悪意を疑うのは品がない(もっとも、アメリカやイスラエルの陰謀を疑うのは下劣でもサダム=フセインアル・カーイダについてはそうではないと考える人もいれば、それと反対に考える人もあり、ダブル・スタンダードは多かれ少なかれ存在するようだ)、という意味でもあったりする。あるいは両者がやや混同されて、あるいは議論を沈黙させるために意図的に混同して使われていることもある。

私じしんは「悪の共同体」は信じないし、後者についても、人間が悪意に基づいてなす悪はそんなに壮大にも組織的にもなれないと考える。親鸞のことば「悪人なおもて往生を遂ぐ、いわんや善人をや」のように、歴史上のおぞましい悪業は、だいたい正義感や使命感、復讐心、名誉欲、権力欲、金銭欲、あるいはたんなる命令への服従や失業への恐怖といった、ふつうに人間臭い動機に基づいているものだからだ(近所のひと談「マジメでおとなしかったあの人が」)。狂気は、それほど多くの人は引きつけないし、「ふつう」はなにごとも正当化しない。

ただ、ここで考えたいのは、そもそも陰謀とはなにか、ということだ。たとえば、スパイ行為やウソの情報を流して敵国をかく乱することは、味方にとってはみごとな「戦術」だろう。また組織的な世論操作とかプロパガンダも、行なう側にはそれが「計画」ではあっても自ら「陰謀」と呼ぶことはまずあるまい。受験産業がわざと小むずかしい模擬試験や講習を行って「あそこに通わないと落ちる」という親の不安をあおるのも(で、学校も点差をつけるべく入試問題を難しくするという循環を生む)、ふつうに「経営戦略」の一環である。

つまり、陰謀はそれによって不利益を受けたり不安をかき立てられるから「陰謀」と呼ばれるのではないか。絶対不変の陰謀などありえない。「陰謀」と「計略」の間に明確な一線は引けないし、そこから利益を得る側には、つねに「プロジェクト」と呼び信じることが可能だ。そもそも「悪意」はあくまで他者の推測であって、本人にとって善意でないとは誰にも言い切れない。

おなじ団体が人によって「スパイ組織」だったり「情報機関」であるのと同じく、むしろ「陰謀」ということばを使うこと自体、無意識にせよ敵と味方の区別や自分の立場、個人的な快不快を表明していることなのだ、と考えるほうが妥当ではないだろうか。

付け加えれば、「陰謀=悪」というのも近年(9.11以降?)流行の輸入観念という気がする。

中井久夫によれば、もともとヨーロッパ語は「意識」と「良心」を明確に区別していなかった。これは「神様が常に見ているのに、お見せできないような疚しさなど心の中にはない/あってはならない」というキリスト教的な潔癖さ(というか強迫観念?)に基づいている。フロイトなどの「無意識」という概念がなかなか広く認められなかったのも、そうした通念に基づく抵抗感があったからだという。

たしかに「柳生一族の陰謀」といった映画のタイトルが示すように、また帝政ロシアを倒すべくレーニンの共産党を援助し、張作霖を爆殺した日本陸軍のように、そもそも日本人がそれほど陰謀嫌いだった、とは思えないのだ。

深読みすれば、「陰謀論叩き」もまた、ひとつの陰謀であるかもしれない。いや、知略か処世術というべきか(笑)。