シンタクラース考

またシンタクラース(聖クラウス)がやって来た。オランダ人にとってはクリスマスより重要、と言われる日。しかし私はこの日が嫌いだ。

はじめてシンタクラースのパレードを見た時の違和感はよく覚えている。白いひげを生やした白人(ほんとうはトルコの人らしいが)の聖クラウス、そして後ろからおどけながら付いてくるまっ黒い顔のピート。

これには、熊本のボシタ祭り(朝鮮出兵からの加藤清正の帰還を祝って始まったお祭り。「ボシタ、ボシタ」の掛け声は「朝鮮滅ぼした」に由来する由)と同じくらいクラッときた。これって、毎度おなじみの人種差別じゃないですか。

これを質したときのオランダの友人たちの説明がふるっている。「いやあ、ピートは煙突を掃除してて、そのススで顔が真っ黒になったんだ。黒人じゃないんだよ」
だれがそんな独善そのものの言い訳を信じるかよ。それなら、アメリカのミンストレル・ショーで顔に靴墨を塗って踊っていた、あれは黒人の真似じゃないのか。また、ピートの役柄は元々「矯正された悪魔」だった由。それは「改宗した異教徒」ってことだよ。だいたい人種は関係ないというんだったら、黒い聖クラウスや白いピートがいたって良さそうなものではないか。

ところが、私がその話をしたオランダに住む日本人の友人は、ほとんどシンタクラース擁護派だ。曰く「そう目くじらを立てるな」「文化の違いなんだから」「子どもの夢を奪うな」等々。

では、「アンクル=トムの小屋」や「ちびくろサンボ」はどうなる?あれだってずいぶん子どもの夢を奪っただろうけど、「滑稽で従順な黒人+慈悲深く威厳ある白人」という役割を無意識に子どもの頭に刷り込むこと、それこそが差別の根源だ、ということで批判されたんではなかったか。オランダと同じパレードをアメリカや南アフリカで行なった時のことを想像して、おなじ言い訳が通用するか考えてみるといい。また、ピートが狐目で黄色い顔だったとして「いやあ、あれはオレンジを食べ過ぎて・・・」なんて説明をあなたは信じるだろうか。

歴史や文化が違おうとお茶の時間に呼ばれなくなろうと、すばらしいことはすばらしい、そしておかしいことはおかしいと言うこと、それこそが相互に理解と尊重を進める力ではないだろうか。欧米に住む日本人によく見受けられる過剰なまでの従順さや寡黙さ、反対に東南アジアでゲンナリさせられる裏返しの尊大さや優越感、それらを見るたびに「脱亜入欧」「名誉白人」といった言葉が頭の中でクルクルと明滅する。

私は、シンタクラースは「アパルトヘイト祭り」と呼びたい。そういえば、APARTHEIDはもともとオランダ語だ。