書評「日本文学史」小西甚一、講談社学術文庫

日本文学史=つまらない、と相場は決まっている、とばかり思っていた。

理由はかんたんで、書き手や教え手がえこひいきやヨイショをするからだ。日本文学は世界に類を見ないユニークで優れたもの、という理由なき前提があり、その結論に向かって思い入れたっぷりに作品が語られて行く、というのが国文学や文学史のありがちな授業/講義ではないだろうか。

もちろん、学者や教師になるのはたいてい国文学に入れ込んでいる人だから仕方がないといえばないのだが、しかしそれでは、つまるところ歴史学の皮をかぶった国学である。翼賛に終わる結果は見えているから、当然つまらない。

しかし、本書のアプローチは全く異なる。いきなり外国の古代文学との比較から英雄時代や叙事詩の伝統の欠如が説明され、中国思想・文化の抜きがたい影響が語られる(本書を読んで、その大きさを改めて認識させられた)。

否定的な評価だけだと「自虐的」とも取られかねないが、著者の作品の評価はじつに正鵠を突き、冷静で説得力があり、しかも作品への愛情(好みもはっきりしていてよい)に溢れている。これは、真の意味でのリベラリズムだといえよう。

また、所々に散りばめられた著者の見解にもたいへん味があり、すぐれた日本文化論になっている。

「政治性じたいは、かならずしも叙事精神と矛盾するものではなかろうが、日本のばあいは、シナから知識として受け容れた政治性であり、自民族の中から湧き上がったものではない。そこに、何か齟齬するものがあり、叙事的表現を薄弱なからしめたのではないか。叙事詩は、叙事詩的材料だけから生まれるものでなく、創造的情熱に燃える民族詩人を俟って、はじめて在りうる」(p.28)

「随筆と訳する西洋のessayやWissenschaftは、もっと主題に統一があり、思想の骨組が明確で、『徒然草』のように無構造的ではない。しかし、この無構造的なところこそ、じつは、日本文藝のひとつの特色なのであって・・・」(p.127)

「自己表現の衝動を抱きながらも自己保存の本能につながる人たちは、人生の真の姿を徹底的に描き出すよりも、現実と妥協した軽い刺激に逃避した。」(p.163)

「日本文藝の歴史的特質・・・分裂とか対立といった性格が、あまり濃厚でないことである。精神と自然との分裂はもともと日本には無く、シナ文化の影響によって分裂現象を生じたのちでも、外国におけるような両極性が明瞭ではない。それはまた、貴族文化と庶民文化とが、はっきりした対立を示さない事実とも、関係づけて考えられよう。」(p.204)

この調子なので、本書は国文学愛好者にはとうぜん受けなかったようだ。本書の初版は昭和29年だが、再版されることなく長らく絶版だったことも、それを物語っている。著者のことばを借りれば、「必要以上の刺激は、かえって『こちたし』と受け取られるにすぎなかった」(p.51)ということだろうか。

例によってそれを救ったのは外圧で、文庫版に解説も書いているコロンビア大名誉教授ドナルド・キーンの絶賛(日本留学中からの愛読者だったという)を得て「幻の名著」と呼ばれるようになり、最近になって文庫化された。まったくありがちな話だが、これも著者のいう「漢文もしくは準漢文の文体で書かれたものが正式の文藝であり、日本語による表現は略儀でしかないという意識」(p.28)の残滓かもしれない。

本書は、日本文学史に興味はあっても書評子とおなじような理由で食指が動かないでいた人に、強くお薦めしたい。

ちなみに、先ほどネットで検索したら、著者は昨年(2007年)5月に逝去された由である。心よりご冥福をお祈り申し上げる。