書評「唯心論と唯物論」L.フォイエルバッハ、桝田啓三郎訳、角川文庫

学生時代、「さいきんフォイエルバッハを読んでる」と言うと、マルクス主義者を自認する友人に怪訝な顔をされた。曰く、「フォイエルバッハ?なんで今さら。マルクスにあんなに批判されてるじゃないか」。その言にも呆れたけれど、なんで呆れてるのかをきちんと説明し反駁できない自分には、もっと呆れた。

当時より少し知恵のついた現在では、こう言うことができる。価値のない物は、そもそも誰も相手にしない。良い物だからこそ批判するし、手ごわく乗り越えがたいからこそ、ことばを重ねるのだ、現にカール・マルクス自身も、若い頃フォイエルバッハイカレてから自分の論理で批判できるようになるまで、 15年を要しているのだ、と。

また、フォイエルバッハマルクス主義の露払い役のように捉えるのもまちがっている。マルクスの本当の先達はヘーゲルの観念的な哲学なのだ。フォイエルバッハはそれを唯物論、つまり現に生きている人間のリアリティに基づいてそれを引っくり返した。ところがマルクスはそれに宿命論のような歴史理論を被せて史的「唯物論」という名の新しい観念論を構築してしまった。いらい唯物論ということばは、共産主義か拝金主義しか意味しないという不名誉を担うことになる。

しかし、フォイエルバッハが「キリスト教の本質」でキリスト教を突きつめると人間学に行きつく、と述べているように、彼の唯物論は健全なヒューマニズムに根ざすものだ。フォイエルバッハを本当に評価・継承したのがハンナ・アレントなど、むしろ民憲主義(市民的共和主義)に属する政治哲学者の方だったのは、当然かもしれない。

「哲学なんてよく分からない」「何の役に立つのか」という人には、ぜひ本書をお勧めしたい。たぶん、一読しての印象は「なんだ、こんなの考えれば誰にだって分かるじゃないか」だろう。しかし、常識は昔から常識だったのではない。・・・神が神に似せて人間を創造したのではなく、人間が人間に似せて神を想像したのだ(ダジャレ)・・・中世ヨーロッパでは、これは火あぶりに値する非常識ではあっても、常識ではなかった。フォイエルバッハは、まさしく決定的な常識を作り上げた一人なのだ。その意味で哲学とはどんな行為なのか、を知るには最良の本だろう。

食べることの意味を真正面から問題にした哲学(だから好きなのか)、いじいじ考え込むより活動することを促した哲学者は、じつは少ない(そもそも、そういう人はあんまり哲学科に進まないからか)。そういう意味でもフォイエルバッハは相変わらず稀な人である。

ちなみに、訳は岩波文庫の晦渋な船山信一(研究者としては、こちらの方が著名だが)訳より、こちらを強くお勧めする。偏見かもしれないが、岩波には名訳が少ないように思う。