ファシズム考

毎年この辺りの時期になると、授業でファシズム(イタリアに限らず広義の)の時代を取り上げることになるが、これは頭の痛いことばだ。「要するにファシズムってのはね〜」といったところでウッと詰まってしまうのだ。簡潔で要を得た説明を持っていないし、じつは歴史教科書もその辺に関してはボカしている。これは扶桑社の教科書でも東京書籍でも大同小異。

もちろん反民主主義とか反自由主義とか、ファシズムの反対物を挙げることはできるが、要はなんなのか、という核心には至らない。

もちろんイタリアのファシズムとナチズムや日本のいわゆる天皇ファシズムが制度面・現象面でどんなに違っていたか、ということについては汗牛充棟の資料や研究があることは承知している。しかし今度は、それはそれでなぜそれらが同時代に(しかも日独伊のみならず)流行し、違いと同時に多くの共通性を持っているのかを説明しなくてはならない。

で、とつぜん律令国家での天皇制について考えているときに思いついたのだが、けっきょくキーワードとすべきはきわめて単純素朴に「独裁」ではないだろうか。まあチャップリンカール・シュミットなどはたぶん分かっていたはずだから、目新しくも何ともないのだが。

ファシズム抜きの独裁はあっても、独裁者抜きのファシズムは存在しない。しかも古典的な専制君主ではなく、もっと20世紀的な大衆的で気の置けない独裁者。たとえばヒトラー東条英機昭和天皇がマッチョな大男だったらあまり成功しなかったかもしれない。また、ムッソリーニは、彼は彼でイタリア人の嗜好に合っていたのではないか。また独裁者の神格化は、世間のしがらみを除いて彼と人びとを直接結びつけ、精神的には近づけることでもある。

そして、独裁者の周りに雪だるまのようにくっついている、幸福な「想像の共同体」への自己同一化とそれを際立たせる「劣等者」の排除。「外敵との戦い」も求心力として働く。また大衆的だからこそ失業対策や社会福祉、経済発展に加え、領土拡大や犯罪者、「劣等者」への厳しい処遇など、人びとを「ちょっといい気持ち」にさせる道具は欠かせない。

こうした広義のファシズムの原動力は、第一次大戦世界恐慌が引き起こした貧困と混乱、そして対話や民主主義、自由あるいは政治過程そのものへの絶望と不信だろう。また、じつは19世紀的な社会ダーウィニズムや国会有機体説が、20世紀にもしっかり生きていたことの証明でもあると思う。

おそらく、「ファシズム」はイタリアのそれに限定するとして、広義のファシズムは大衆的独裁制popular dictatorshipとでも呼ぶのが適切ではないだろうか。たとえば、

「大衆的独裁制=独裁者が自らを大衆の偶像(アイドル)とし、また彼らの期待になし崩し的に応え、彼らの自我を自分に重ね合わせ肥大させることで権力を確立する政治形態」

ただそうすると、その理想型はあんがいF.ルーズベルトということになるのかもしれない。