土居健郎「漱石の心的世界」(弘文堂) 雑感

本書が異文化・外国語との格闘を経た著者(それは漱石のイギリス体験とも重なる)ならではの優れた漱石論であることは言を俟たないが、冒頭の「坊っちゃん」に関しては一点読み誤りがある。

それは、清が坊っちゃんが大きくなってから彼の家に奉公を始めたと措定していることで、ていねいに本文の時系列を追うと、坊っちゃんの母親が亡くなった直後、勘当されかかったところで「十年来奉公している」ことになっていて、その5、6年後に父親が死去し、坊っちゃんも中学を卒業しているから、遅くとも坊っちゃんが物心付いた頃にはすでに家にいたことになる。寝小便の思い出話をして坊っちゃんを困らせるあたりもそれを裏付けていよう。

そう考えると、清がほとんど坊っちゃんの育ての親的存在で「まるで自分を製造したように」誇っても不思議はないわけで、また坊っちゃんの心的パターンもお見通しであろう。

いや、むしろ著者が指摘するように清と共依存で一体になっているからこそ、坊っちゃんもそれ以外の親密な人間関係を求めず、また安心?して破壊的な人間関係を家族・同僚・生徒との間に繰り広げることができた、とも言えそうだ。その意味でも、小説「坊っちゃん」の影の主人公は清なのだと思う。

ちなみに、坊っちゃんは江戸っ子(漱石が自身を投影しているとすれば維新で没落した名主の家系)で戸主相続権を持たない次男、清は「瓦解」(=いわゆる明治維新)で没落した武家の娘、山嵐会津人と、坊っちゃん側にはみごとに維新・明治体制の「負け組」が勢揃いしている。出版当時の読者であれば、そこに維新から引きずって来た鬱屈と爆発を読み取ることも容易であったろう。また清の坊っちゃんへの溺愛・同情も、明治民法下の家制度と無関係ではないと思う。

また、「坊っちゃん」が1906年、日露戦争講和の翌年、戦勝ムードの一方で日比谷焼打事件などで騒然としていた頃の作品であることにも気をつけたい。「それから」の代助の台詞、

「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許ばかりが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張はつちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ・・・」

を想起すると、坊っちゃんが依存し、金も平気で借りており、破壊的人格の育ての親、かつ大甘な実の保護者である清を明治日本のスポンサーであり日清・日露戦争に駆り立てた英国に準えることも可能ではないか。そう考えると「坊っちゃん」は漱石による明治日本、およびそれが作り上げた男性像のやや辛辣な自画像、という気がしてならない。